ヤヌス神殿
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ヤヌス神殿(ヤヌスしんでん、ラテン語: Templum Iani,イタリア語: Tempio di Giano)は古代ローマのフォルム・ロマヌムにあった神殿。出入口と扉を司る神であるヤヌスの像が祀られた建物の両側には扉が設けられていた。この扉は「ヤヌスの扉」と呼ばれており、古代ローマにおいて戦時に開けられ、平時に閉じられていた。日本語で、ヤヌスの神殿と表記されることもある。
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- 1 ヤヌス神殿とは
- 2 ヤヌス神殿の概要
ヤヌスの扉
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ヌマ・ポンピリウスの治世下では平和を維持し、このヤヌスの門は閉じられていた。第3代の王トゥッルス・ホスティリウスはラテン人の都市国家アルバ・ロンガに戦争を仕掛けるため、ヤヌスの門を開いた。以後、およそ400年間に渡って数多くの戦いを行い、紀元前241年に第一次ポエニ戦争を終えるまで門は開いたままであった。この時の閉門の期間は8年で終わり、イタリア北部のガリア人と戦うため、再び開門した。次に門が閉じられたのは、オクタウィアヌスがアクティウムの海戦等で勝利し内乱の一世紀を集結した紀元前28年のことである。初代皇帝アウグストゥスは自らの著作「自省録 (アウグストゥス)(英語版)」で、自ら3度ヤヌスの門を閉じたと回顧している。歴史家カッシウス・ディオによれば、アウグストゥスが門を閉じた最初の2回は、紀元前29年と前25年であると特定できる。3度目の閉門は諸説あり、Inez Scott RybergとGaius Stern説では紀元前13年、ロナルド・セイム説では紀元前7年、Orosius説では紀元前1年である。 この後も、ヤヌスの門の閉門は何度も行われ、有名なのは第5代皇帝ネロと、第9代皇帝ウェスパシアヌスである。ネロ帝は平和の女神の祭壇(アラ・パキス)をデザインしたアス硬貨を発行している。帝国後期の皇帝もヤヌスの門を閉じたことはあったようだが、史料が十分でなく詳細は不明である。
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