メディチ家の介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 08:21 UTC 版)
「サン・ロレンツォ聖堂」の記事における「メディチ家の介入」の解説
15世紀初めに司教座聖堂参事会員は聖堂のさらなる拡張を決定したものの、拡張工事は始めのうち大変ゆっくりと進行した。1418年に修道院長マッテオ・ドルフィーニは教会の翼廊を拡張するため、幾つかの住宅を取り壊す許可を都市政庁から得ている。そして1421年8月10日、同院長は拡張工事の開始を祝福するための式典を執り行った。この拡張工事に財政的支援を行なった出資者のなかには、この地域に住んでいた極めて裕福な銀行家ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチがおり、恐らく彼が建築家を推挙したと考えられている。その建築家とは、既にジョヴァンニ・デ・メディチのため礼拝堂(今日の旧聖具室)を建設していたフィリッポ・ブルネッレスキである。教会堂の再建計画は1421年、ドルフィーニの死後にようやく円熟し、ブルネッレスキの関与は一般的に同年以降のことであったと考えられている。 (旧)聖具室が1428年に完成した(1429年にジョヴァンニ・デ・メディチの葬式が執り行われた)一方で、教会の再建工事はなかなか進展しなかった。1441年以降、ジョヴァンニの息子、コジモ・デ・メディチがこの計画を進めることになったが、それでも断続的に行なわれるにとどまった。この時期に、メディチ宮殿を手掛け、もはや年老いたブルネッレスキが開始した数々の建築工事の跡を引き継いでいた若き建築家ミケロッツォにサン・ロレンツォ聖堂の再建工事も引き継がれたものと考えられている。 1457年からアントニオ・マネッティ・チャッケリが工事を指揮し、ほとんどの工事が完成した1461年に主祭壇が聖別された。それから3年後に没したコジモ・デ・メディチは、主祭壇の真下に位置する地下聖堂(クリュプタ)に埋葬された。 以来、サン・ロレンツォ聖堂はメディチ家出身者の埋葬の場となり、家柄が断絶するまで歴代のトスカーナ大公もみなこの場所に埋葬されることとなる。この慣習は、メディチ家の後、トスカーナ大公を継いだロレーナ家の成員にも引き継がれた。 サン・ロレンツォ聖堂のファサードは未完のまま残されている。メディチ家出身の教皇レオ10世は、ファサード計画のためコンクールを開催し、これにはラッファエッロやジュリアーノ・ダ・サンガッロなど偉大な芸術家たちが参加し、最終的に1518年ミケランジェロにこの仕事を与えた。ミケランジェロは木製の模型を作ったものの、完成するには至らなかった。教皇レオ10世はさらに、若くして亡くなった甥であるウルビーノ公ロレンツォ(1519年没)と弟ヌムール公ジュリアーノ(1516年没)の墓廟を設置するため、新聖具室を建設するようミケランジェロに依頼した。新聖具室は、ロレンツォ豪華王とその弟ジュリアーノの墓も含める形で完成された。 メディチ家出身のもう一人の教皇クレメンス7世もまた、ミケランジェロにラウレンツィアーナ図書館の建設を依頼することにより、サン・ロレンツォ聖堂の拡張に寄与した。 主祭壇の背後に位置する広大なる「君主の礼拝堂」は、トスカーナ大公フェルディナンド1世・デ・メディチの時代に開始された建築計画である。メディチ家は、メディチ家最後の末裔アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチが1734年に没した時にもまだこの礼拝堂の支払いを終えていなかった。 小さな鐘楼は、フェエルディナンド・ルッジェーリの建設になり、1740年に遡る。 メディチ家の末裔アンナ・マリアは、サン・ロレンツォ聖堂における最後の重要な作品を注文した。即ち、画家ヴィンチェンツォ・メウッチに≪フィレンツェの守護聖人たちの栄光≫をクーポラに描かせたのである(1742年)。これにより聖歌隊席を彩っていたポントルモのフレスコ画は失われた。
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