メディチ家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 08:19 UTC 版)
トスカーナが政治的な実体を持って地理的文化的に成り立ったのは、15世紀から始まった都市国家フィレンツェ共和国がその拡大政策によって1406年にピサ共和国を、1421年にはリヴォルノを取得したことに始まった。フィレンツェ共和国は、メディチ家が支配する16世紀に世襲制君主国のトスカーナ公国になり、領土はトスカーナ地方全域に拡大した。 メディチ家時代の第1期(1434年から1494年)はコジモ・デ・メディチ(治世:1434年 - 1464年)に始まり、メディチ家のフィレンツェ追放により終わる。その後フィオレンティーナ共和国(Repubblica Fiorentina)が建国されたが、1512年にメディチ家が復帰し、1527年にフィレンツェ共和国が再興された。1530年、神聖ローマ皇帝カール5世はアレッサンドロ・デ・メディチを摂政に任命し、1532年にアレッサンドロはフィレンツェ公となった。その為国名をフィレンツェ公国に改めた。 コジモ1世が1537年にトスカーナ公となるとイタリア戦争に関わっていき、カール5世のスペイン軍と共にフランスと結んだシエーナ共和国を攻撃し1555年にシエーナを占領した。そして、1559年のカトー・カンブレジ条約によりスペインに貸していた膨大な債権と引き換えにシエーナ共和国とシエーナ公の地位を手に入れ、併合した。 1569年にはローマ教皇ピウス5世により初代トスカーナ大公に叙され、トスカーナ大公国が成立した。コジモ1世からフェルディナンド1世までがメディチ家の絶頂期であった。その後メディチ家はジャン・ガストーネ(在位:1723年 - 1737年)まで続いたが、地中海貿易の衰退などによってイタリア自体国際的地位が低下し、トスカーナ大公国も衰退の一途を辿った。ジャン・ガストーネが没すると、後継者がなくメディチ家は断絶した。ジャン・ガストーネの遺言によってトスカーナ大公国はハプスブルク=ロートリンゲン家に継承された。ただし、神聖ローマ帝国にもハプスブルク家の本領にも含まれず、大公国とメディチ家の財産は公国政府によって管理されることとなった。
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