ムガル朝の衰退とインドの分裂
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「近世から近代にかけての世界の一体化」の記事における「ムガル朝の衰退とインドの分裂」の解説
詳細は「ムガル帝国」および「マラーター王国」を参照 50年におよぶ治世のなかで、デカン遠征をはたしてインド亜大陸のほぼ全域を支配した皇帝アウラングゼーブは1707年に死去した。イスラーム神学にも深い造詣をもつ彼は、「生きた聖者」とよばれる厳格なイスラーム教徒で、異教徒を抑圧したため、晩年はヒンドゥー教徒の反発や各地の農民一揆に悩まされる日々を過ごした。 アウラングゼーブ死後、ムガル朝は中央集権的な軍事国家体制が崩壊し、バハードゥル・シャー1世(在位:1707年 - 1712年)、ジャハーンダール・シャー(在位:1712年 - 1713年)、ファッルフシヤル(在位:1713年 - 1719年)、ラフィー・ウッダラジャート(在位:1719年)、ラフィー・ウッダウラ(在位:1719年)の6人の皇帝が、ムハンマド・シャー(在位:1719年 - 1748年)が1719年にパーディシャー(皇帝)の称号を得て即位するわずか12年の間に、相次いで廃位や殺害をくり返す混乱状態となった。これは、度重なる皇位継承戦争やサイイド兄弟が皇帝位に干渉しつづけたことによる。ムハンマド・シャーの即位もまた、サイイド兄弟の信任によるものだった。 ヒンドゥー教では、17世紀後半よりシヴァージーによって率いられたマラーター族がムガル朝に反乱を起こし、デカン高原西部にマラーター王国を称してアウラングゼーブを苦しめたが、1680年にシヴァージーが死ぬと、王国はムガル朝におされて一時衰退していた。 1708年、マラーター王国を中心に有力諸侯によるマラーター同盟が結成された。1713年、マラーター王シャーフーはその王位継承に功のあった司令官バーラージー・ヴィシュヴァナートを初代宰相に任じた。ここに、王国宰相を中心とする各地の有力諸侯(ラージャ)による諸侯連合体制がしだいに整備されて、ムガル朝の衰退に乗じてインド中部から北部へと勢力を伸ばし、1737年には弱体化したムガル朝の首都デリーを攻撃した。 一方、1708年にムガル朝の地方統治者と戦っていたシク教第10代教主のグル・ゴーヴィンド・シングは、デカン高原のマラーター王国遠征中にアフガン人の刺客から受けた傷がもとで死亡した。彼の4人の息子はムガル朝との戦争で先に死んでおり、遺言により教主職の相続を廃止し、聖典『グラント・サーヒブ』を教主(グル)として仰ぐようにしたため、人間としてのグルは彼が最後となった。こののち、シク教徒たちは、1710年から1715年にかけてムガル朝に対し、大規模な反乱を起こしている。 その間、1739年には、アフシャール朝イランのナーディル・シャーがインドに侵攻している。首都デリーでは略奪と虐殺をくり返し、シャーが引き揚げたあとはまるで廃墟のようだったという。長いあいだ栄えたムガル朝の巨万の富は諸外国にも鳴り響いており、莫大な財貨を持ち帰った彼はイランの人びとから英雄として迎えられた。戦利品のなかには、ムガル朝の象徴「孔雀の玉座」があった。これは、2羽のクジャクを飾る宝石がちりばめられたもので、シャーによって解体され、宝石の山となって持ち帰られたという。 サファヴィー朝、ムガル朝ともに、もともと内陸部の騎馬民の軍事力を背景にして成立した王朝国家ということもあり、海上交易には比較的関心がうすく、インド洋やペルシア湾でのヨーロッパ諸国の活動をほとんど制限しなかった。また、ヨーロッパの新しい科学技術に対する関心も概して低かった。それが、ヨーロッパ諸国の本格的な進出を許す原因ともなった。しかし、両王朝の衰退は主に領域内からの反乱によるものであり、ヨーロッパ人の進出の結果とはいえない。ヨーロッパ人の進出、特にイギリスによるインドの植民地化はむしろその衰退に乗じたものといえる。
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