ヘンリー2世との対立とは? わかりやすく解説

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ヘンリー2世との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:38 UTC 版)

アリエノール・ダキテーヌ」の記事における「ヘンリー2世との対立」の解説

ヘンリー2世子女周辺諸国との友好維持のために活用しようとしたのに対しアリエノールは自らのアキテーヌ領の維持にしか関心無かったとされるが、ヘンリーマルグリット結婚では共同歩調合わせていた。成人した王子たち処遇巡り次男ヘンリーにはプランタジネット家のアンジュー・メーヌ・ノルマンディーを、三男リチャード(後のリチャード1世)にはアリエノールアキテーヌ与えた一方、四男ジェフリー(後のジョフロワ2世)はコンスタンス・ド・ブルターニュとの婚姻によりブルターニュのみとなり、ヘンリー2世が最も愛した末子ジョン(後の欠地王)に至って与え所領無かった一方三女マティルダザクセン公バイエルン公ハインリヒ獅子公に、四女エレノアカスティーリャ王アルフォンソ8世に、五女ジョーンシチリア王グリエルモ2世それぞれ嫁いだ。 だが、夫妻1166年ジョン産まれた頃から不仲になった。同年頃にヘンリー2世には愛妾ロザモンド・クリフォード(1140年以前 - 1176年)が出来たからであり(2人の関係は1173年頃とも)、それまで結婚生活愚痴言わず束の間浮気は目をつぶっていたアリエノールだが、ヘンリー2世がロザモンドをウッドストック宮殿英語版)に引き入れ堂々と囲う姿勢我慢ならず、愛人との同居拒み子供たちと供の者を連れてオックスフォードボーモント宮殿英語版)へ移りそこでジョン出産夫妻の仲に修復不可能な亀裂入ったジョン産んでから翌1167年12月までイングランド滞在していたアリエノールは、大陸へ渡りクリスマスヘンリー2世と共にノルマンディーアルジャンタン宮廷開き、そこでポワティエアキテーヌ反乱悩まされた夫の頼みで、ポワティエへ夫の代理として赴任した1168年ソールズベリー伯爵パトリック・オブ・ソールズベリー(英語版)ら少数護衛連れて行進中にリュジニャン家兵士襲われソールズベリー伯戦死自身辛うじて逃げ延びる危険な目に遭ったが、捕虜になったソールズベリー伯の甥ウィリアム・マーシャル(後の初代ペンブルック伯)を身代金支払い解放以後マーシャルヘンリー2世アリエノールの子供たちの忠実な側近として台頭していった。また、自領の平定尽力しつつもアンジュー帝国から自領を切り離し子供たち与えることを計画、夫と対立してでも子供たち権利支持することを決意以後夫と別居状態に入ったアリエノールアキテーヌ継承者であるリチャード溺愛し夫婦対立深まっていった。また、1169年リチャードルイ7世2番目の妻コンスタンスの娘で9歳アデル王女(英名:アレーまたはアリス)を婚約させ、アデル王女イングランド宮廷養育された。ところがヘンリー2世結婚先延ばしにして手元留め、後にアデル王女手を付けたという真偽不明の噂が流れたため、ヘンリー2世リチャード対立及びアリエノールリチャード側に付く原因となった同年ヘンリー2世は3人の息子連れてモンミライユ(英語版)でルイ7世会見大陸に関して息子たちルイ7世臣従捧げさせた。かたやアリエノールリチャードへのアキテーヌ継承確かな物とするため、彼を連れてアキテーヌ巡回して人々支持取り付け1170年復活祭リチャードアキテーヌ公即位式挙行アキテーヌ独立進めていった。 ポワティエアリエノールの城では吟遊詩人騎士らが集いヘンリー2世との間の息子たちとその妃や婚約者ヘンリーの妃マルグリットリチャード婚約者アデルジェフリー婚約者コンスタンス)、幼い娘たちエレノアジョーン)、さらに前夫ルイ7世との間の長女マリー訪れるようになり、アラゴン王アルフォンソ2世ナバラ王サンチョ6世など外国君主貴族訪問も受け、華やかな宮廷文化開花した後述)。 1170年ヘンリーへの王位継承盤石にすべく共同統治者とする(若ヘンリー王)が実権無かった若ヘンリー王はこの実態に不満を抱いていた上、慕っていたベケットが父の配下暗殺されたことに衝撃受けて父に不信感抱き1173年2月、父が弟ジョン領土分割公表したことに反発したジョンがもらう予定のシノン・ルーダン(英語版)・ミルボー英語版)はポワティエブルターニュ国境にあり、大陸領を東西分断する重要拠点だからである。3月に父の下から脱走した若ヘンリー王ルイ7世庇護のもと、父の独裁に対して反乱を起こすと、アキテーヌ全土イングランドヘンリー2世対す反乱勃発しスコットランド王ウィリアム1世加勢ルイ7世反乱扇動拡大していった。同じく反乱扇動したアリエノール自分宮廷にいた下の2人の息子リチャードジェフリーパリ宮廷へ送り出し、自らもフランスへ避難しようとした。 しかし、1174年1月アリエノール不審兆候監視していたヘンリー2世に捕えられ、初めシノン城幽閉7月からイングランドへ移送され以降15年余りにわたってイングランドソールズベリー軟禁された。一方ヘンリー2世7月ベケットの墓へ向かい懺悔ウィリアム1世イングランド軍に敗れて捕らえられたことで立ち直り大陸領を攻めていたルイ7世の軍を退却させ、息子たちの反乱9月までに早期鎮圧一連の内戦ヘンリー2世勝利終わった。ロザモンドの住むウッドストック宮殿アリエノール押し掛け、剣か毒いずれかで死ぬか選択迫ったとする伝承が残るが、ロザモンドが死去した1176年アリエノール監禁中のため事実ではない。

※この「ヘンリー2世との対立」の解説は、「アリエノール・ダキテーヌ」の解説の一部です。
「ヘンリー2世との対立」を含む「アリエノール・ダキテーヌ」の記事については、「アリエノール・ダキテーヌ」の概要を参照ください。

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