ヒマラヤの地政学と文化とは? わかりやすく解説

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ヒマラヤの地政学と文化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 14:35 UTC 版)

ヒマラヤ山脈」の記事における「ヒマラヤの地政学と文化」の解説

巨大なヒマラヤ山脈は、何万年もの間人々の交流妨げ障壁となった。特にインド亜大陸民族中国・モンゴル民族混ざり合うのを妨げ、これらの地域文化的民族的言語的に非常に異なっている直接の原因となったヒマラヤ山脈は軍の進撃通商妨げともなりチンギス・カンヒマラヤ山脈のためにモンゴル帝国インド亜大陸拡大することができなかった。また、急峻な地形厳し気候によって孤立した地域生まれ、独特の文化育まれた。これらの地域では、現代でも交通の便が悪いため古い文化習慣根強く残っている。 ヒマラヤ大きな影響与えているのは、北のチベット系民族と南のインド系民族である。山脈大部分チベット系民族居住地であるが、南からやってきたインド系民族低地中心に南麓には多く住んでいる。チベット系民族多く山岳地域住み都市文明を持たなかったが、ネパールカトマンズ盆地住んでいるネワール人は例外的に肥沃な盆地根を下ろしカトマンズパタンバクタプルの3都市中心とした都市文明築いたカトマンズ盆地18世紀インド系民族ゴルカ朝によって制圧されたが、ネワールは力を失うことなくカトマンズなどではネワールインド系文化重層的展開した姿が見られるカトマンズ以外のネパールインド文化的なつながり強くチベットともややつながりがあるが、中国文化圏との共通性ほとんどない宗教的に仏教徒少なくヒンドゥー教徒多く住む。これに対し、その東隣にあたるシッキムブータンチベット文化圏であり、住民仏教徒がほとんどである。しかし19世紀以降地理的条件似ているネパールからの移民両国大量に流入しシッキムにおいてはネパール系が多数派となり、ブータンにおいても一定の勢力を持つようになった。これは両者の対立引き起こし、この対立原因シッキム独立失いブータンでも深刻な民族紛争勃発することとなったヒマラヤ地域広く分布するチベット民族顔つきこそモンゴロイドだが中国文化圏との共通性低くインド文化圏とも共通性少ない。チベット古くからその孤立した地形によって独立保ち、独自のチベット文化圏形成している。 ヒマラヤ西部のパンジャーブ・ヒマラヤではイスラーム教圏の影響が強い。カシミールイスラーム住民多数占め地域である。カシミールの北にあるラダック19世紀よりジャンムー・カシミール藩王国となっていたが、もともとチベットとのつながりの深い地域であり、住民チベット系民族であって宗教チベット仏教である。その西はパキスタン領のバルティスターンであるが、この地域歴史的にラダックつながり深く住民チベット系であるが、宗教イスラーム教であり、インド・パキスタン分離独立の際起きた第1次印パ戦争ではパキスタン帰属選択した

※この「ヒマラヤの地政学と文化」の解説は、「ヒマラヤ山脈」の解説の一部です。
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