ヒッタイトの崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 07:16 UTC 版)
「前1200年のカタストロフ」の記事における「ヒッタイトの崩壊」の解説
ウガリットのラス・シャムラ遺跡で発見された文書によればヒッタイトの崩壊は前12世紀初頭とされている。このラス・シャムラ遺跡を発掘したクロード・A・シェッフェル (en) によれば、海の民が沿岸を進み小アジアを横断、ヒッタイトとその同盟国へ攻撃を仕掛けキプロス、シチリア、カルケミシュ、ウガリットへ手を伸ばしたとされている。ただし、アナトリア内陸部にあるハットゥシャはその痕跡は残っていない。 また、ヒッタイトの最後の王シュッピルリウマ2世がウガリットの支援を受けた上で海の民に勝利したというエピソードも残されているが、これは侵入者がヒッタイトを分断して崩壊へ導いたことを否定する材料にもならず、トラキアからフリュギア人らがヒッタイトを攻め滅ぼした可能性もフリュギア人らがヒッタイトの大都市が崩壊したのちにアナトリアへ至っていることから余り高くない。 ヒッタイトの崩壊には2つの仮説が存在しており、侵入者がハットゥシャ、カニシュ (en) などあらゆる建物に火を放ったとする説。ヒッタイトは内部と近隣地域から崩壊した後、アッシリアの攻撃を受けた事によりウガリットを代表とする属国、同盟国が離反、さらには深刻な飢饉のために弱体化して崩壊したとする説である。シェッフェルによれば後者の説には裏づけがあり、ウガリット、ハットゥシャで発見された文書によればヒッタイト最後の王、シュッピルリウマ2世は「国中の船を大至急、全て回す」よう命令しており、オロンテス川流域の小麦をキリキアへ運ぶのと同時に、王、その家族、軍隊を移動させようとしていた。これはシュッピルリウマ2世が首都を捨てようとしていたことが考えられ、これについてシェッフェルは旱魃と地震により、ヒッタイトに繰り返し飢餓が発生していたと分析している。 さらにシェッフェルによればトルコのアナトリア地方は地震群発地帯であり、地震により火災が発生したことで各都市が火災の跡が残っているとしており、ウガリット時代の地層は稀に見るぐらいの激震で揺さぶられていたとしている。 また、前者の説はギリシャ北部から移住したフリュギア人、エーゲ海より侵入した人々、いわゆる『海の民』らがヒッタイトへ侵入、ヒッタイト滅亡の最大の要因となったと推測している説も否定されているわけではない。
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