トスカーナの自由主義
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「イタリア統一運動」の記事における「トスカーナの自由主義」の解説
1820年代はイタリアの愛国者にとっては弾圧つまり暗黒の時代であった。しかしそれにも例外があった。それがルッカ公国とトスカーナ大公国である。ルッカ公国では1824年にルッカ公となったカルロ・ルドヴィーコが寛大な善政を敷き、フランスの反対を押し切ってボナパルティストを国内に迎え入れた。 一方トスカーナ大公国では、大公フェルディナンド3世と宰相ヴィットーリオ・フォッソンブロニ(イタリア語版)の開明的施策のもと、さらに自由主義的な政治・文化が育まれていた。その結果トスカーナ大公国では秘密結社運動そのものが見られず、1824年に大公を継いだレオポルド2世もまた教養に富んだ開明的君主で諸邦からの自由主義者の亡命を受け入れた。 このような政治情勢が反映され、1820年にはジョバン・ピエトロ・ヴュッソー(イタリア語版)が中心となって「ガビネット=シエンティフィーコ=レッテラーリョ(イタリア語版)」という文化施設が開館され、そこで繰り広げられた自由主義的談話はのちに月刊誌『アントロジーア(イタリア語版)』の創刊へと結びついた。ヴュッソーに協力したのはいずれも穏健思想家のジーノ・カッポーニ(イタリア語版)、コジモ・リドルフィ(イタリア語版)、ラッファエッロ・ランブルスキーニ(イタリア語版)などで、彼らは1827年に共同で『ジョルナーレ=アグラーリオ』なる農業振興のための新聞を発刊している。 以上のことから分かるように、トスカーナ大公国での活動は政治思想的というより知識の啓発が狙いだった。しかしアントロジーア(イタリア語版)誌に代表されるこれら新聞や雑誌は1830年代になると弾圧される運命にあった。それはその執筆者や寄稿者であるジャコモ・レオパルディやニコロ・トマセオ(イタリア語版)、ジュゼッペ・モンターニ(イタリア語版)やアレッサンドロ・マンゾーニが齎したロマン主義文学の隆盛によるイタリア文芸思想の成熟が、イタリア民族の解放を願う愛国的感情の高ぶりを招き、それを警戒したオーストリア帝国がトスカーナ大公国に圧力をかけたからであった。しかしそれでもトスカーナ大公国では自由主義的思想が他のイタリア諸邦よりも比較的維持され、それは次なる革命の機運を呼び起こすこととなった。
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