ディエンビエンフーの戦い
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ディエンビエンフーの戦い(ディエンビエンフーのたたかい、ベトナム語: Chiến dịch Điện Biên Phủ IPA: [t͡ɕjěn zîk̚ ɗîənˀ ɓīən fû], 漢字:戰役奠邊府, フランス語: Bataille de Diên Biên Phu 発音: [bataj də djɛ̃ bjɛ̃ fy])は、1954年3月から5月にかけてフランス領インドシナ北西部のディエンビエンフー(ベトナム語: Điện Biên Phủ, 漢字:奠邊府)で起こった、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。フランスからの独立とベトナム民主共和国建国を宣言していたベトミンの軍隊(ベトナム人民軍)が、フランス外人部隊などフランス軍を破り、インドシナからの撤退に追い込んだ。両軍合わせて約1万人の戦死者を出した。
注釈
- ^ ディエンビエンフー要塞の建設は、フランスへの援助を通じてベトナムへの介入を強めていたアメリカ合衆国、特にリチャード・ニクソン副大統領の強力なイニシアチブの下で進められた。要塞が完成する直前にはニクソン副大統領自らが現地を訪問し、ジープで走り回りながら構築状況を確認している姿が記録フィルムに残されている。
- ^ 自転車に可能な限りの荷物を固定し、乗車せず人が手押しした。当初の最大積載量は100kg程度でそれでも人力に数倍したが、荷物固定や車両強化のノウハウが蓄積され、次第に輸送量は増加した。最高記録はフート省の男性Ma Van Thangによる370kgとされ、実物はハノイのベトナム軍事歴史博物館で展示されている[6]。
- ^ フランス側の補給機はベトナム側の対空砲火を避けるために高空飛行を行わなければならず、その結果補給物資が投下目標を外れてベトナム側の陣地内に落ちることもあった。
- ^ ディエンビエンフーの戦いで事実上の当事者であったニクソン副大統領は、ディエンビエンフー要塞が包囲されフランス軍が危機に陥った際、要塞周囲の山岳地帯に集結したベトミン軍と中華人民共和国とソ連の軍事顧問団に対する原子爆弾投下をアイゼンハワー大統領に進言するが、冷たく拒絶されたことを自著『ノー・モア・ヴェトナム』(講談社、1986年、ISBN 4-06-202446-2)に記している。
- ^ ディエンビエンフーの戦いでは、フランス本国出身者、植民地、外人部隊などの兵士が捕虜となったが、ベトミン側は当初これらの捕虜の存在を秘匿することでジュネーヴ協定の交渉過程での取引材料とし、フランス政府からの身代金の支払いと引き換えに送還が実現した。
出典
- ^ “ディエンビエンフーの戦い”. 世界史の窓. 2023年5月16日閲覧。
- ^ a b c "ディエンビエンフーの戦い". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2023年7月13日閲覧。
- ^ a b c d “ディエンビエンフーの戦い”. 文教大学 (2009年7月23日). 2023年5月16日閲覧。
- ^ a b c 田中 1986, p. [要ページ番号].
- ^ “Chiếc xe đạp thồ trong chiến dịch Điện Biên Phủ(ディエンビエンフーの戦いにおける自転車輸送隊)” (ベトナム語). ベトナム労働総同盟 (07/05/2023). 2024年1月17日閲覧。
- ^ “Pack-bikes contribute to the Dien Bien Phu Victory” (英語). ベトナム国防省. 2024年1月17日閲覧。
- ^ 「ディエンビエンフー戦勝70周年記念式典開催、仏国防相も初参列」VIETJOベトナムニュース(2024年5月7日)2024年5月11日閲覧
- 1 ディエンビエンフーの戦いとは
- 2 ディエンビエンフーの戦いの概要
- 3 概要
- 4 戦闘序列
- 5 ベトナムにおける戦勝記念日と70周年式典
- 6 関連項目
- 7 外部リンク
ディエンビエンフーの戦い
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「第一次インドシナ戦争」の記事における「ディエンビエンフーの戦い」の解説
詳細は「ディエンビエンフーの戦い」を参照 1953年11月20日、カストール作戦(英語版)が実施され、ディエンビエンフーに3個空挺大隊が降下、同地を占領し12,000人の兵力と火砲が配備され、地上設備・空中補給および近接航空支援態勢が整えられた。 ベトミン軍はディエンビエンフー降下の一報が入ると、それまで分散配置していた4個師団の集結を決定。周辺の山岳諸民族と連携し隠密裏に陣地に大砲・食糧を運び込んだ。また小規模ゲリラ部隊を駆使して各地のフランス軍を拘束し部隊移動を秘匿した。 1954年3月13日、戦闘が始まるが、攻撃開始日からベトミン軍の猛烈な砲撃が加えられ、人海戦術により独立高地に設けた2個のフランス軍陣地は早々に陥落した。フランス軍は劣勢となり3月末には滑走路も使用不可能になった。4月、ハノイから3個空挺大隊の派遣と近接航空支援を増強したが、塹壕に篭るベトミン軍にはあまり効果がなかった。雨季の天候は空軍の活動を制限し、ベトミン軍の砲撃支援を受けた夜襲は次々と陣地を攻略していった。末期には周囲2kmの範囲のみをかろうじて保持するのみで、5月7日に陥落し生き残ったフランス兵は捕虜となった
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