ソ連陰謀説について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:24 UTC 版)
ハル・ノートをめぐっては、「ソ連が独ソ戦を有利に戦うために日米開戦を策した」という「ソ連陰謀説」が一部に存在し、ハル・ノートの作成過程にソ連の関与が噂されていた。事実、ハル・ノートの原案となったモーゲンソー私案を作成したハリー・ホワイト財務次官補は、戦後にソ連のスパイとの容疑をかけられている。ホワイトは非米活動委員会で疑惑を否定し、その後間もなく急死した。しかし、後年に公開されたヴェノナ文書によると、当時のソ連の諜報活動はアメリカ政府中枢にも及んでおり、その中でもホワイトは最も高い地位にいた人物であったと思われる。ただし、これらがスパイ活動としてのそれか、既に独ソ戦が起こり米が英・ソ連に武器貸与等協力する中での正当な協力・情報交換関係であったかは、検討を要する。 そして、1990年代になってソ連の内務人民委員部(NKVD。後のKGB)で米国部副部長を務めたヴィターリー・パヴロフがホワイトと接触し、アメリカの交渉戦略に関する情報等を提供していたことが明らかとなった。ソ連側ではホワイトの名前から「スノウ(雪)作戦」と呼ばれていた。ただしパヴロフ自身がホワイトと会ったのは、1941年5月の一度だけである。 ホワイトは6月6日に私案をヘンリー・モーゲンソー財務長官に提出したが、この時はモーゲンソーの興味を引かず「雪作戦」は空振りとなった。しかもモーゲンソーが11月に私案を取り上げるまでの5ヶ月の間に、独ソ戦の開始・日本の関東軍特種演習の実施などソ連の危機は高まっており、そもそも作戦の成果には疑問符がつく。 パヴロフの証言によれば、関東軍の脅威のなかで、ソ連極東地域を日本の攻撃と侵攻から防衛することが目的であったとしており、日米を開戦させるという考えは全面的に否定している。「雪作戦」の主眼はアメリカの圧力と妥協で満州の関東軍を撤退させ、その見返りにアメリカは日本に経済的埋め合わせを行うということであり、モーゲンソー私案にもそれらが明確に表れている。ただしソ連の工作により、ホワイトがモーゲンソー私案を書いたとまでは断定できない(パヴロフは自分達の考え方が、ホワイトの状況の理解と合致したと述べている)。結論的にソ連の工作によって日米戦争が起きたとする、「ソ連陰謀説」は確定的ではない。むしろパヴロフの証言はホワイトの影響力を誇張することで、KGBの工作が日本を南進させてソ連を二正面作戦の危機から救ったというストーリーになっており、KGB称賛の意味合いが強い。 一部にはソ連の関与をもって「ハル・ノートはソ連製」とする誤解もあるが、ホワイトが作成したのは原案に過ぎない。しかも最終的なハル・ノートよりも遥かに穏健・現実的な提案だとも評されており、単にホワイト自身が日米交渉の妥結を本気で目指し、彼個人の案を書いたものである可能性が強い。しかし、関係者の稟議を経るうちによくあるように、それぞれの要求が加えられていき、いわば交渉の駆引きにおいて最初に突きつける高めの要求をまとめたようなものになっていき、最終的にこれらをまとめてハル・ノートを作成したのはあくまで国務省極東部である。
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