ソロキャリアと最後の年
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「サンディ・デニー」の記事における「ソロキャリアと最後の年」の解説
その後、1枚目のソロアルバム『海と私のねじれたキャンドル』の録音に取り掛かった。1971年にリリースされ、その捉え所のない歌詞と、型破りなハーモニーで際立っていた。これはフェアポートのバンドメンバーだったマーティン・ランブル(英語版)の夢と死に触発された「レイト・ノーヴェンバー」や、デニーの歌のなかで数多く描かれているジャクソン・C・フランク(英語版)についての暗号めいた「ネクスト・タイム・アラウンド」で際立っている。 デイヴィッド・ベイリー(英語版)によるジャケット写真があしらわれた『サンディ』が1972年に続き、このアルバムでトレバー・ルーカス(英語版)が初めてプロデュースした。新しいオリジナル曲8曲とともに、このアルバムではデニーのトラディショナル曲の最後の録音となる、ブルガリア共和国のアンサンブルに触発されたデニーの野心的なマルチトラックのボーカルアレンジメントの「クワイエット・ジョイズ・オブ・ブラザーフッド」が披露された。 『メロディー・メイカー誌(英語版)』の読者は投票で1970年と1971年の2度に渡ってデニーを「イギリスの最優秀女性歌手」に選び、デニーはザ・バンチと呼ばれるロックンロール時代のスタンダードを集めた『ロック・オン』と題されたアルバムを録音するための一回限りのプロジェクトに参加した。 1971年、デニーは『レッド・ツェッペリン IV』に収録された「限りなき戦い」でロバート・プラントとデュエットした。デニーはレッド・ツェッペリンのアルバムに参加した唯一のゲストボーカリストである。1972年にデニーはザ・フーのロックオペラ『トミー』のルー・ライズナー(英語版)の交響楽的編曲に亀尾出演した。デニーの短い出演は、ピート・タウンゼントのボーカルがフィーチャーされた「イッツ・ア・ボーイ」の最後の部分だった。 1973年、デニーは長年のボーイフレンドでプロデューサーのトレバー・ルーカス(英語版)と結婚し、3枚目のソロアルバム『オールド・ファッションド・ワルツ』をレコーディングした。収録曲では喪失、孤独、闇への恐怖、時間の経過や季節の移ろいといったデニーの個人的な関心の多くが書き連ねられている。このアルバムには、デニーのもっとも愛された自作曲である「ソロ」が収録されており、ゲレッド・マンコヴィッツによるジャケット写真があしらわれている。 1974年、デニーはフェアポート・コンベンション(すでに夫のルーカスが参加していた)に復帰し、ワールドツアー(1974年のアルバム『ライブ』に収録された)と1975年のスタジオアルバム『ライジング・フォー・ザ・ムーン』に参加した。デニーのソリストおよびソングライターとしての発展が『リージ・アンド・リーフ』以来、バンドが試行していたフォークに根ざした方向性から遠く隔たっていたにも関わらず、11曲中7曲はデニーの作詞作曲ないし共作だった。 デニーとルーカスは1975年末にフェアポート・コンベンションを離れ、デニーの最後のアルバムとなる『ランデヴー (サンディ・デニーのアルバム)』に着手した。1977年にリリースされたこのアルバムの売り上げは芳しくなく、それに続いてデニーはアイランド・レコードから脱落した。1970年代半ばにノーサンプトンシャーのバイフィールド(英語版)に引っ越して、1977年に唯一の子供となる娘のジョージアを出産した。 1977年秋の「ランデブー」のプロモーションの全英ツアーが、デニーの最後の公開の出演となった。1977年11月27日のロンドンのロイヤルティ・シアター(英語版)での千秋楽はライブアルバム『ゴールド・ダスト〜ザ・ファイナル・コンサート 1977』に収録されたが、エレクトリック・ギターの録音に関する技術的な問題から、ギターのほとんどがジェリー・ドナヒューによって録りなおされた後で1998年になってようやくリリースされた。
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