シルバーアローとは? わかりやすく解説

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シルバーアロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 16:28 UTC 版)

シルバーアロードイツ語: Silberpfeil, 英語: Silver Arrows)は、1934年から1939年までの期間にヨーロッパの自動車レースを席巻したメルセデス・ベンツアウトウニオンに付けられたニックネームである。両社のレース用車両はともに銀色の車体をしていたことからそう呼ばれた。1950年代以降もこの呼称はメルセデス・ベンツのレース用車両にしばしば用いられ、用語として定着している。日本語ではドイツ語に基づいた「シルバープファイル[1]」ではなく、英語に基づいた「シルバーアロー」の呼称が一般的に用いられているため、本記事もそれに倣う[表記の注釈 1]。この記事では用語の概要と、メルセデス・ベンツにおける起源を中心に述べる。


注釈

  1. ^ 「Silver Arrows」の訳語は「シルバーアロー」以外に、「シルバー・アロー」、「シルバーアロウ」のように揺れがある。メルセデス・ベンツ日本の製作物では「シルバー・アロー」という表記が用いられているが、この記事では書籍やメディアで比較的多く用いられている「シルバーアロー」(中黒なし)を用いる。

出典

  1. ^ 1933年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を獲得して自動車を振興する政策や軍需製品の注文を増やしたことで、経営が安定する目途が立ったという背景がある。
  2. ^ 1934年アイフェルレンネンのブラウヒッチュ車と同じカーナンバー20を付けている。
  3. ^ ノイバウアーの自伝の英訳版は原書に忠実な翻訳にはなっておらず、原書から削っているだけではなく、原書に存在しない文章が無許可で差し込まれることもされている[W 4]。原書の実際の執筆を担当したハーヴェイ・ローウェは、それを知った時には激怒したが、法的措置を取るには遅すぎたためそのままになったと後に語っている[W 4]
  4. ^ アイフェルレンネンで走行した車両も空気取り入れ口を有している。
  5. ^ 第二次世界大戦後のフォーミュラ1などの規則では、「最低重量」のみを設定することが多くなるが、1930年代以前のAIACRによるグランプリ規則では「最大重量」を定めることはよくあることだった。
  6. ^ 3名のレギュラードライバーの内、エースのルドルフ・カラツィオラは練習走行には参加したが、前年に負った足の怪我が完治しておらずニュルブルクリンクのレースを走り切ることは難しいとして参戦を辞退した[5]。そのため、このレースにはダイムラー・ベンツからは2名のみの参戦となった。
  7. ^ アヴスレンネンで銀色だった車両を、翌週のアイフェルレンネンであえて白く塗装したのは、それが本来のナショナルカラーであり、見栄えをよくするためにノイバウアーが命じたものだったとされる[W 5]。アヴスレンネンにチームを参戦させることに失敗したノイバウアーは、このアイフェルレンネンへの参戦には自身の進退がかかっており、万全を期すための気遣いだったが、結果として裏目に出ることになる[W 5]
  8. ^ これは自動車歴史家のカール・ルドヴィクセン英語版が『Mercedes-Benz Quicksilver Century』(1995年刊)で書いた話で、ルドヴィクセンはその話を「良い情報源」(good source)から得たと書いてるが、具体的な出典は明かしていない[W 3]。ルドヴィクセンは触れていないが、1934年当時の「フェラーリの監督」はエンツォ・フェラーリである。
  9. ^ ウーレンハウトは1931年からダイムラー・ベンツで働いており、アイフェルレンネンに出向いていた可能性はある[W 3]
  10. ^ 後に編集者となり、モトール・プレッセ・シュトゥットガルトドイツ語版を立ち上げた。同社は雑誌『アウト・モトール・ウント・シュポルト英語版』を刊行している。
  11. ^ ノイバウアーの自伝には1933年トリポリグランプリドイツ語版についての記述に事実との明白な齟齬があり、この主張はその点に立脚している[W 3]。しかし、これは当時の自伝ではよくある「エラー」であり、それをもって自伝全体の信憑性を疑うのはいかがなものかという擁護もある[W 3]
  12. ^ 1933年トリポリグランプリの記述も、異論を唱えることのできる当事者が死去している事柄について記述しており、この点もノイバウアーの自伝が批判を受けた原因になっている[W 8]
  13. ^ 前提として、アイフェルレンネンは当初は750 kgフォーミュラの規定で開催される予定だったが、参加台数が集まらなかったため、フォーミュラ・リブレで開催することに変更されたという経緯がある。
  14. ^ メルセデスチームは1914年フランスグランプリ英語版を圧勝したという栄光があり、そのためフランスグランプリで栄光の再現を狙った。1954年に同チームが復帰戦としてフランスグランプリを選んだのも同じ背景事情によるものである[13][14][7][W 11]
  15. ^ このレースの出場を拒否した場合、ノイバウアーは更迭されていたと考えられており、非選手権レースではあるがノイバウアーにとっては大きなプレッシャーがかかっていた一戦だった[W 5]
  16. ^ 『アウト・モトール・ウント・シュポルト』はカラツィオラの車両について、ノイバウアーの自伝『Männer, Frauen und Motoren』に「そこにあった車は、小さく、そして白かった。」(Der Wagen stand da, klein und weiß.)という記述があるとしている[W 6]。実際、白い塗装がされているように見える写真も存在する[W 15](この写真の車両はカラツィオラの白い帽子と比べると明らかに銀色だとする見解もある[W 16])。翻訳による違いについて、ノイバウアーの自伝の原書はドイツ語で著されたが、橋本茂春による日本語訳は英語版から日本語に翻訳したものであるためか、上記の箇所は訳出されておらず、アヴスレンネンのカラツィオラ車のことは「銀のような光を放つ軽合金ボディがきれいだった」[5]と描写されている。アヴスレンネンのカラツィオラの車両はカラツィオラの自伝(高斎正による日本語訳)では「小型で白い車だった」と書かれている[19]。この箇所は英訳版でも「The car was there too, small and white,」と書かれている[W 3]
  17. ^ アヴスレンネンに持ち込まれた3台全てがそうだったのかは不明瞭だが、銀色のボディをしたW25が持ち込まれていたことは当時の写真や報道記事から明らかだった[W 6]。参考のため、当時の写真を例示する:[W 17][W 18][W 19]
  18. ^ これらの写真のいくつかは出典[W 6]の中でも示されている。他の写真も存在する[W 21]
  19. ^ 2009年、グラスが遺した膨大な写真はダイムラーによる資金援助を受けてデジタル化が進められ、同社でもアーカイブされることになった[W 22][W 20][W 6]
  1. ^ RacingOn No.478 Mercedes' C、「C292 走れなかった“最終走者”」 pp.80–87
  2. ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「ゴードン-ベネット・トロフィー」 pp.39–48
  3. ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.26
  4. ^ a b MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.40
  5. ^ a b c MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「8 レース監督の非情と友情」 pp.71–81
  6. ^ a b c d e f g h i MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.145
  7. ^ a b c d e f g h i シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「12 750kgフォーミュラW25の誕生」pp.70–74
  8. ^ a b c Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.154
  9. ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.153
  10. ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.32
  11. ^ a b c d e Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.158
  12. ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.156
  13. ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.135
  14. ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.22
  15. ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.144
  16. ^ RacingOn No.478 Mercedes' C、「シルバーアローのはじまり」 pp.28–29
  17. ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.36
  18. ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.143
  19. ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「13 カムバック」 pp.76–80
  20. ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.155
  21. ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「6 不吉な予言」 pp.53–59
  22. ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.157
  1. ^ a b c メルセデスストーリー 第4回 いかにしてシルバー・アロー伝説は生まれたか”. メルセデス・ベンツ日本. 2023年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月8日閲覧。
  2. ^ a b c Silver Arrows” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年2月29日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af Don Capps (H Donald Capps) (2010年2月25日). “Automobile Racing History and History or Case History and Casey and Clio Has a Corollary: Part I” (英語). Autosport.com (8W). 2021年6月28日閲覧。
  4. ^ a b c d e Harvey T. Rowe (2019年). “Interview with Harvey T. Rowe” (英語). H Donald Capps via Academia.edu. p. 81-89. 2021年6月28日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i Josef Ernst (2019年). “The 1934 Eifel Race– Neubauer’s dilemma” (英語). H Donald Capps via Academia.edu. p. 90-99. 2021年6月28日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Malte Jürgens (2010年9月20日). “Stimmt die Legende der Silberpfeile wirklich?” (ドイツ語). auto motor und sport. 2021年6月28日閲覧。
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  14. ^ The Mercedes-Benz Silver Arrows from 1934 to 1939” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2009年1月31日). 2023年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
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  23. ^ a b Richard Asher (2023年2月21日). “特集|軽量化のためカラーリングを削ったメルセデスF1のデジャブ。ふたつ名”シルバーアロー”誕生にまつわる逸話と真実 ”. Motorsport.com. 2023年8月20日閲覧。
  24. ^ 中嶋健治 (翻訳) (2023年8月12日). “シルバーアローの幕開け メルセデス・ベンツSSKL ストリームライナー 復刻版1932年式を体験 前編 (2/2)”. Autocar. 2023年8月20日閲覧。
  25. ^ a b Formidable victory at International Avus race in 1932” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2023年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
  26. ^ The Silver Arrow: SSKL Avus Racing Car from 1932” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
  27. ^ Überragender Sieg beim Internationalen Avus-Rennen 1932” (ドイツ語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2023年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
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  29. ^ How the “Silver Arrow” legend was born” (英語). Audi AG (2009年5月26日). 2021年6月28日閲覧。


「シルバーアロー」の続きの解説一覧

シルバーアロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 18:35 UTC 版)

アルフレート・ノイバウアー」の記事における「シルバーアロー」の解説

世界恐慌の影響レース活動停止していたダイムラー・ベンツは、1934年の新フォーミュラ750kgフォーミュラ)の導入合わせてレース復帰するノイバウアーは再びチーム監督となり、これがノイバウアーにとって最良時代とされる「シルバーアロー」時代1934年 - 1939年)の始まりとなる。 1934年6月新規定に合わせて製作され新型車両メルセデス・ベンツ・W25ニュルブルクリンクにおけるアイフェル・レンネン(英語版)でデビューレース迎える。しかし、レース前になってW25の重量が751kgあり、規定を1kgオーバーしていることが判明したノイバウアーと、ドライバーのブラウヒッチュは、当時メルセデスまとっていた白い塗装研磨して剥がすことを思いつき、W25はその塗装全て剥がされ、アルミニウム銀色素地露出させた姿となった。これが、シルバーアローの始まりとなる(詳細は「シルバーアロー」を参照)。 「シルバーアロー」時代は、ドイツ車ヨーロッパグランプリ席巻した時代でもあり、優勝は常にメルセデス・ベンツアウトウニオンによって争われた。メルセデスチームにとって最も輝かし時代となったこの時期ドライバーとしてカラツィオラ、ブラウヒッチュに加えてヘルマン・ラングリチャード・シーマン擁しノイバウアー栄光の時代支え享受した。 しかし、第二次世界大戦勃発1939年9月)によりレース活動全て停止となり、戦時中1939年から1945年にかけて、ノイバウアーダイムラー・ベンツ修理部門責任者務めた当初北アフリカ戦線展開していたドイツアフリカ軍団飛行機修理にあたるため、オランダ研修受けていた。しかし、着任する予定だったアフリカ部隊全滅してしまったためアフリカに渡ることはなく、東部戦線前線近く複数修理工場設置するための管理業務ベルリンら行ようになったドイツ敗戦すると収容所入れられたものの、2週間釈放された。

※この「シルバーアロー」の解説は、「アルフレート・ノイバウアー」の解説の一部です。
「シルバーアロー」を含む「アルフレート・ノイバウアー」の記事については、「アルフレート・ノイバウアー」の概要を参照ください。


シルバーアロー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 17:32 UTC 版)

ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ」の記事における「シルバーアロー」の解説

アロー強化版。ボスに対して威力落ちる。エルフのみバグ空中で撃つと使用数減らない

※この「シルバーアロー」の解説は、「ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ」の解説の一部です。
「シルバーアロー」を含む「ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ」の記事については、「ダンジョンズ&ドラゴンズ シャドーオーバーミスタラ」の概要を参照ください。

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