シュリーフェン・プランへの批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:49 UTC 版)
「シュリーフェン・プラン」の記事における「シュリーフェン・プランへの批判」の解説
シュリーフェン・プランの最大の問題点は、戦争遂行のために純軍事技術的な側面を徹底的に追求し、そのために政治的側面をそれに従属させている点にあった。その意味において、かつてカール・フォン・クラウゼヴィッツが述べた「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長である」という言葉と全く逆の性質を持っていた。ベルギーの中立侵犯を、イギリスの対独宣戦や国際的汚名を被ることを無視して、軍事的要請から押し通したことはその最も典型的な例である。 また、「小モルトケによってシュリーフェン・プランが「改悪」され、その結果ドイツが敗北に至った」という説は1920-50年代ごろによく述べられた説であるが、モンゴメリ以降は軍事技術や補給の問題からシュリーフェンの原案の現実性も否定されている。クレフェルトによれば、第一次世界大戦では、マルヌ川に到達した時点でドイツ軍は疲労しきっていた。もし原案に沿って作戦を進めていたら、セーヌ川のはるか以前でドイツ軍は停止せざるをえない状況に至っていただろうと推測されている。ただ、クレフェルトは補給線にのみ求めているが、実際の原因としては鉄道の破壊等、フランスの計画に対する防御の深化の成功に基づくものであり、この非現実性は(それで対処される計画の脆さは大いにあるが)諜報の失敗ともいえる。 シュリーフェン・プランは「フランス軍を短期決戦(当初の予定では1ヶ月半)で降伏に追い込む」ことと「ロシアは鉄道などの交通インフラが防御的であると同時に、総動員(対独攻勢の準備)完了までにかなりの時間がかかる」ことを前提として立案された。しかし第一次世界大戦が勃発するころにはロシアの鉄道網の整備も進んでおり、ロシアは7月31日に総動員を開始し17日後の8月17日には東プロイセンへの侵攻を開始した。ドイツ側の予定よりも早期に行われたロシアの侵攻に対処するため、西部戦線から兵力を引き抜かなければならなくなったことが同年9月のマルヌ会戦敗北と西部戦線の膠着化を招く一因となっているので、たとえシュリーフェンの原案通りに作戦が遂行され補給に問題が無かったとしても、シュリーフェン・プランはロシアとフランスの動員速度の差が一定水準以下に縮まった時点で、実行するための前提条件から破綻していたことになる。 また、ドイツの一方的都合で自国の政治的中立と領土、主権を侵犯されるベルギー自身の軍事的抵抗も全く想定していなかったため、リエージュ要塞攻略で2日間足止めされるなど、想定外の時間と物資を浪費し戦力の分散を余儀なくされる事態も生じている。
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