シュリーランガパトナの包囲とティプー・スルターンの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 17:18 UTC 版)
「第四次マイソール戦争」の記事における「シュリーランガパトナの包囲とティプー・スルターンの死」の解説
4月5日、イギリスとニザームの大縦隊はマイソール王国の首都シュリーランガパトナを取り巻く高地に到着し、都市を接近して包囲した。このとき、マイソールの騎兵が正面と右前方にいたが、ほとんど損害を与えることはできなかった。 イギリス側の密偵の話によると、ティプー・スルターンは包囲により気を落とし、彼は自身の立場が非常に困難であることを理解して決断に苦慮していた。シュリーランガパトナの防衛計画を大急ぎで練り上げたが、その計画をまた作り直すほどであったという。 カーヴェーリ川の中にあるシュリーランガパトナの町は多くの拠点で守られており、スルターンペート・トーペーはその中でも最も重要であった。アーサー・ウェルズリーは夜襲を命じられたが、彼には夜襲の経験がなく不慣れなこの地で完全に道を失い、ついには方向すらわからなくなった。部隊とともに森に迷い込んだ彼らは混乱し、マイソール側の銃撃にさらされ、応戦を試みたが同士討ちになるありさまであった。 翌6日の明け方、ウェルズリーは部隊を再編し、マイソール軍の町を守る最重要拠点スルターンペート・トーペーで戦いを挑み、激戦の末にこれを落とした(スルターンペート・トーペーの戦い)。 その後、一ヶ月に及ぶシュリーランガパトナ包囲戦ののち、5月4日にイギリス軍はシュリーランガパトナに対して総攻撃を掛けた。この日の総攻撃において、ティプー・スルターンは激戦の末に戦死した。ティプー・スルターンの息子といった家族もイギリス軍に捕らえられた。 5月13日、マイソール軍はイギリスに降伏を申し出て、イギリス軍は翌月までにシュリーランガパトナの包囲を解除した。かくして、実に30年以上に及ぶマイソール戦争は終わりを告げた。
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