カロデンの戦いまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 03:28 UTC 版)
「1745年ジャコバイト蜂起」の記事における「カロデンの戦いまで」の解説
詳細は「フォルカーク・ミュアの戦い(英語版)」および「カロデンの戦い」を参照 侵攻自体はほとんど何も果たせなかったが、ダービーまで進軍して戻ってきたことは軍事的には相当な成就である。ジャコバイト軍の戦意は高く、フレイザー、マッケンジー、ゴードン氏族から徴集してきた軍勢とフランス軍のスコットランド人とアイルランド人正規軍の増援によりジャコバイト軍は8千人まで増えた。フランス軍から供給された大砲は戦略上の要地であるスターリング城の包囲戦(英語版)に使われ、1月17日にはフォルカーク・ミュアの戦い(英語版)でヘンリー・ホーリー(英語版)率いる救援軍を撃退したが、包囲自体の進捗は遅かった。 ホーリーの軍勢は撃退はされたもののほとんど無事であり、1月30日にカンバーランド公爵がエディンバラに到着すると、ホーリーの軍勢は再びスターリングに進軍した。多くのハイランド人がフォルカーク・ミュアの戦いの後にハイランドへ去ったため、ジャコバイト軍は2月1日にスターリング城の包囲を諦め、インヴァネスに撤退した。カンバーランド公爵の軍勢は海岸に沿って進み、海路で補給を受けられるようにした。カンバーランド公爵は2月27日にアバディーンに入城したが、両軍とも天気が好転するまで軍事行動を一時停止した。 フランスからの補給船の一部がイギリス海軍の海上封鎖を突破したが、ジャコバイト軍は春までに食料、資金、武器がいずれも不足しており、4月8日にカンバーランド公爵がアバディーンを離れたとき、ジャコバイトの指導部は会戦が最良の選択肢であると結論付けた。蜂起が終わった後には戦場選びの責任を負ったマレーとオサリヴァンの支持者が戦場の選択について論争したが、会戦の敗北自体はいくつかの要因があった。カンバーランド公爵の軍勢が人数でも装備でも勝っていたこともあるが、ハイランド部隊の突撃の対処について特訓していたこともある。ハイランド部隊の突撃は速度と獰猛さをもって敵軍の戦列を破っており、成功した場合はプレストンパンズの戦いやフォルカーク・ミュアの戦いのように戦闘が早期に終結するが、失敗した場合は踏みとどまることができなかった。 たびたびイギリス本土における最後の会戦ともいわれる4月16日のカロデンの戦いはわずか1時間足らずで政府軍の決定的な勝利に終わった。前夜にカンバーランド公爵の軍勢に奇襲を仕掛けるべく行軍したことで疲れたため(奇襲自体は失敗した)、多くのジャコバイトはカロデンの戦いに参戦できず、結局参戦したのは5千人にも満たないジャコバイト軍とよく休んで装備も整った7千から9千の政府軍だった。 戦闘はまず砲撃で始まったが、政府軍の砲撃が練度でも回数でもジャコバイト軍の砲撃を上回った。チャールズは持ちこたえ、カンバーランド公爵の攻撃を予期したが、カンバーランド公爵は攻撃を拒否した。砲撃に対応できず大きな損害を出したスコットランド氏族連隊の一部が撤退をはじめると、チャールズは自軍の前列に突撃を命じた。ジャコバイト軍左翼は前方に沼地が広がったため右に進んだが、そこではカロデン・パークの壁に行動を制限された。 これにより政府軍の戦列までの距離が遠くなって突撃の勢いが減ることになり、政府軍の砲撃に晒される時間が長くなった。さらに、政府軍は砲撃をぶどう弾に切り替えた。ハイランド部隊はそれでも政府軍の左翼に攻め込み、後退させたものの完全に破ることはできず、さらにラウドンの連隊(英語版)がカロデン・パークの壁の後ろからハイランド部隊の側面に攻撃を加えた。反撃のできないハイランド部隊は陣形が破り、混乱して後退した。ジャコバイト軍第2列のアイルランドとスコットランド正規軍が規律を保って撤退したため、チャールズや側近は北へ撤退することができた。 フランス正規軍など規律を保った部隊は撤退中でもすきをあまり見せなかったが、ハイランド部隊は多くが政府軍の竜騎兵の追撃を受けて戦死した。政府軍の損害は戦死約50と負傷259であり、戦場に残ったジャコバイト軍の負傷者は戦後に殺害されたとされ、合計で死者1,200-1,500と負傷500となった。その後の2日間、生還者約1,500人がリーヴェン兵舎(英語版)に集まり、チャールズは20日に解散を命じた。彼は解散の理由について、戦闘の継続にはフランスの援助が必要で、ジャコバイト軍は彼がさらなる支援をもって帰ってくるまで待つべきと述べた 。 エルホー卿が後に主張したところでは、彼がチャールズに彼のもとに残った9千人の先頭に立つべきで、生死を共にすべきと述べたが、チャールズはフランスに渡る決意をしたという。チャールズはハイランド西部で追手を回避しながら、9月20日にようやくフランス船に拾われた。以降はスコットランド人との関係がこじれていたこともあり、二度とスコットランドに戻ることはなかった。彼はダービーまで進軍する以前にもマレーなどの裏切りを疑っており、このような怒りの爆発は戦況への失望や深酒によりだんだんと頻繁になり、スコットランド人のほうもチャールズが保証する支援を信じられなくなった。
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