オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争
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「第2次百年戦争」の記事における「オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争」の解説
オーストリア継承戦争は、オーストリアのマリア・テレジアの帝位継承を機にプロイセン・フランス・スペインが一斉にハプスブルク領に襲いかかったことから始まったが、イギリスは、オーストリア領ネーデルラントがフランスの手に陥ることは本土防衛を脅かすことにつながり、また、プロイセンの強大化は国王ジョージ2世の故郷ハノーファー公国の危機でもあるとしてマリア・テレジアに与力した。ジョージ2世はみずから軍勢を率いて大陸に遠征し、1743年のデッティンゲンの戦いでは仏軍を破ったが、同年スペインがイギリス南海会社のもつ貿易独占権を破棄して、これをフランスにあたえたため正式な宣戦布告がなされるに至った。1745年、ネーデルラントがフランスの手に帰し、さらに同年チャールズ・エドワード・ステュアートがフランスの助力のもとスコットランドに上陸してジャコバイトと合流し、手薄になったイギリス政府軍を破る事態となった。1746年、カロデンの戦いでイギリスはこれを撃退し、チャールズをフランスに追い返した。 北米では、この戦いはジョージ王戦争と称されたが、イギリスのニューイングランド植民地軍がカナダ東部ケープ・ブレトン島の要衝ルイスバーグ要塞(英語版)を陥落させている。いっぽうムガル朝インドでは、カーナティック戦争(カルナータカ戦争)が英領マドラスと仏領インドの首都ポンディシェリとの間で3次にわたって繰り広げられた。第1次戦争(1744年-1748年)では、インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもとでフランス側が優勢で、イギリスはマドラスをフランス軍に奪われている。 1748年、アーヘンの和約が成り、それによってオーストリアはプロイセンにシュレージエン地方を、スペインにパルマ・ピアチェンツァを割譲、各国はマリア・テレジアの相続人としての所領の不可分を定めた国事勅令を確認、さらにハノーヴァー朝がフランスより承認を受けた。北米では、陥落させたルイズバーグ要塞をマドラスと引き替えに返還することとなり、せっかくの植民地軍の奮闘もイギリス本国の国益のために無視された格好となった。また、4年の期限で貿易独占権を回復した。 なお、カーナティック戦争は第2次(1749年-1754年)、第3次(1758年-1763年)ともに南インド東海岸の貿易拠点と荷物の集散地をめぐって争われ、オーストリア継承戦争後も続いた。北米でも英仏両勢力の抗争はつづいていた。
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