オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争とは? わかりやすく解説

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オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 03:08 UTC 版)

第2次百年戦争」の記事における「オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争」の解説

オーストリア継承戦争は、オーストリアマリア・テレジア帝位継承機にプロイセン・フランス・スペインが一斉にハプスブルク領に襲いかかったことから始まったが、イギリスは、オーストリア領ネーデルラントフランスの手陥ることは本土防衛を脅かすことにつながりまた、プロイセン強大化は国王ジョージ2世故郷ハノーファー公国危機でもあるとしてマリア・テレジア与力した。ジョージ2世はみずから軍勢率いて大陸遠征し1743年デッティンゲンの戦いでは仏軍破ったが、同年スペインイギリス南海会社のもつ貿易独占破棄して、これをフランスあたえたため正式な宣戦布告なされる至った1745年ネーデルラントフランスの手帰し、さらに同年チャールズ・エドワード・ステュアートフランス助力のもとスコットランド上陸してジャコバイト合流し手薄になったイギリス政府軍を破る事態となった1746年カロデンの戦いイギリスはこれを撃退しチャールズフランス追い返した北米では、この戦いジョージ王戦争称されたが、イギリスニューイングランド植民地軍カナダ東部ケープ・ブレトン島要衝ルイスバーグ要塞英語版)を陥落させている。いっぽうムガル朝インドでは、カーナティック戦争カルナータカ戦争)が英領マドラス仏領インド首都ポンディシェリとの間で3次わたって繰り広げられた。第1次戦争1744年-1748年)では、インド総督ジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもとでフランス側優勢で、イギリスマドラスフランス軍奪われている。 1748年アーヘンの和約成り、それによってオーストリアプロイセンシュレージエン地方を、スペインにパルマ・ピアチェンツァを割譲各国マリア・テレジア相続人としての所領不可分定めた国事勅令確認、さらにハノーヴァー朝フランスより承認受けた北米では、陥落させたルイズバーグ要塞マドラス引き替え返還することとなり、せっかくの植民地軍奮闘イギリス本国国益のために無視され格好となったまた、4年期限貿易独占回復した。 なお、カーナティック戦争第2次1749年-1754年)、第3次1758年-1763年)ともに南インド東海岸貿易拠点荷物集散地めぐって争われオーストリア継承戦争後続いた北米でも英仏勢力抗争つづいていた。

※この「オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争」の解説は、「第2次百年戦争」の解説の一部です。
「オーストリア継承戦争/ジョージ王戦争」を含む「第2次百年戦争」の記事については、「第2次百年戦争」の概要を参照ください。

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