オーストリア系ハプスブルク家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 17:48 UTC 版)
「ハプスブルク家」の記事における「オーストリア系ハプスブルク家」の解説
「ハプスブルク君主国」および「ハプスブルク=ロートリンゲン家」も参照 オーストリア系ハプスブルク家またはオーストリア・ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世に始まる(ハプスブルク君主国)。1648年に三十年戦争終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約によって弱体化した。しかしオスマン帝国の第二次ウィーン包囲(1683年)撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りオスマン帝国支配下にあったハンガリーを奪還する(1699年、カルロヴィッツ条約)。スペイン継承戦争では、ハプスブルク家に支援を申し出たホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世に「プロイセンの王」の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝としての権威を示す。 1740年、カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続したものの、それを不服とするプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発した。オーストリアはシュレージエンを失うなど一時苦境に陥るが、イギリス(グレートブリテン王国)の援助を受けて劣勢を挽回し、1748年アーヘンの和約によってオーストリア、ボヘミア、ハンガリーの相続を承認される。また、マリア・テレジアの夫であるロレーヌ家(ロートリンゲン家)のフランツ・シュテファンが1745年に帝位を奪還した。その後、大国化するプロイセン王国に対抗するためフランス王国と接近した(外交革命)。フランス王太子ルイ(ルイ16世)とマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の結婚もその一環である。しかしこの行為でドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。それでもオーストリアは大国としての地位を確保し、プロイセン、ロシアと共にポーランド分割に参加した。さらにマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世は啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めた。 1789年のフランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンとともにフランスに出兵する(フランス革命戦争)。しかし革命政府軍に敗れるなど失態を演じ、さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許し、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に呑み込まれて行く動乱の時代に突入する。
※この「オーストリア系ハプスブルク家」の解説は、「ハプスブルク家」の解説の一部です。
「オーストリア系ハプスブルク家」を含む「ハプスブルク家」の記事については、「ハプスブルク家」の概要を参照ください。
- オーストリア系ハプスブルク家のページへのリンク