エドゥサ革命
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エドゥサ革命(エドゥサかくめい、タガログ語: Rebolusyon sa EDSA, 英: Edsa Revolution)とは、1986年2月22日のフィリピン軍改革派将校のクーデター決起から25日のアキノ政権樹立に至るまでフィリピンで発生した革命である。
- ^ アキノ元比大統領が死去 ピープルパワー革命の中心 - ウェイバックマシン(2013年11月11日アーカイブ分)(47NEWS・2009年8月1日)
- ^ エリア・スタディーズ 2009, p. 173.
- ^ Radio Broadcast of the Philippine People Power Revolution-UNESCO
- 1 エドゥサ革命とは
- 2 エドゥサ革命の概要
- 3 背景
- 4 革命
- 5 記録として
- 6 外部リンク
エドゥサ革命
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フェルディナンド・マルコス大統領の統治のもとにおいて、シン枢機卿は期せずしてフィリピン全体の精神的指導者という役割を担っていくことになり、政治とも密接にかかわることになった。長期にわたったマルコス政権が腐敗したことで、汚職・不正行為が横行し、国民の不満は高まっていた。1983年には国民の間で広く人気があったベニグノ・アキノ元上院議員がマニラ国際空港で暗殺され、マルコスが黒幕であると噂された。 マルコス政権崩壊の直接のきっかけとなったのは1986年の選挙で、(政府の不正な操作によって)マルコスが優勢であるという発表がされたために国民の不満が爆発。国内は騒乱状態となり、いつ内戦になってもおかしくない状態となった。そんな中にあってシン枢機卿はフィリピンのカトリック教会の代表として人々にイエス・キリストと福音の精神に従うこと、運動の中で絶対に暴力を用いないよう訴えた。 マルコス大統領とイメルダ夫人は完全に国民感情が自分たちから離れていることに気づき、状況を打開するため、シン枢機卿に自分たちの側について国民を説得してくれるよう願った。枢機卿はこれを丁重に拒否した上、大統領と夫人に対して、マニラ市内に集まってマルコス打倒を叫んでいた人々に対する武力行使を行わないよう願った。にもかかわらず、大統領は軍に対してデモ制圧のための武力行使を許可した。 戦車と兵士の一隊がデモの大群衆と対峙した時、デモに参加した民衆はその場にひざまずいてロザリオの祈りを唱え、英語の聖歌を歌った。これを見た兵士たちは武力制圧の命令を拒否した。兵士たちの一部は逆にデモ隊に加わりさえしている。シン枢機卿はいつ流血が起きてもおかしくなかったこのような状況において死者や負傷者が一人もいなかったことは奇跡・恵みであるとしている。 ここにいたってマルコス大統領と一族、側近たちは国外亡命を余儀なくされ、ロナルド・レーガン大統領の斡旋によってハワイのホノルルに逃れた。国民が主役の政変は成功し、この出来事は「ピープルズ・パワー」(人民革命)あるいは「エドゥサ革命」とよばれることになった。(エドゥサ(EDSA)とは民衆が集まって行進を行ったマニラ市内の大通りの名称(Epifanio De los Santos Avenue)の略である。)政変後のコラソン・アキノ、フィデル・ラモス両大統領のもとで、シン枢機卿はエドゥサ革命の立役者として賞賛され、大統領たちのアドバイザーであり続けた。
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エドゥサ革命
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詳細は「エドゥサ革命」を参照 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}マルコスとイメルダ・マルコス夫人をはじめとした取り巻きによる政治の私物化と腐敗政治が進み、対外債務の膨張が財政を逼迫させるなど徐々に政権は危機的な様相を帯びてきた[要出典]。1981年に戒厳令は解除されたが、1983年に政敵の元上院議員ベニグノ・アキノがマニラ空港(現在のニノイ・アキノ国際空港)で暗殺された。これは反体制派の怒りを増した。こうした国民の不満の爆発を受け、1986年2月の選挙をきっかけにエドゥサ革命が勃発し、マルコス夫妻はハワイに亡命、1989年にハワイで死去。 新たに大統領に就任したコラソン・アキノは7度のクーデター未遂に見舞われ1989年には軍反乱事件が起き、アキノ政権はアメリカ軍の助力を得てクーデターを鎮圧した。 1990年にルソン島中部でバギオ大地震が発生し、多数の死傷者が出た。1991年にはピナトゥボ火山が噴火し、この災害をきっかけにフィリピンからアメリカ軍は基地を撤収した。 1992年に大統領に就任したフィデル・ラモスは新自由主義的な民営化政策と規制緩和を徹底し、経済成長率の上昇を実現したが、他方でこの経済成長は雇用を拡大せず、出稼ぎに依存するフィリピン経済の性格は維持された。同年、米軍撤退完了。 1995年には各地の軍事反乱が終息し、1996年モロ民族解放戦線と和平協定が締結(en:Peace process with the Bangsamoro in the Philippines)。1997年にはディオスダド・マカパガル死去。 1998年、ジョセフ・エストラーダが大統領就任するが、2000年下院、エストラーダ大統領を弾劾。市民デモ(ピープルパワー)が活発になり、2001年 第二人民革命(en:EDSA Revolution of 2001)が起きる。 2004年 グロリア・アロヨ、大統領選挙で当選。しかし、その後アロヨは選挙の不正を認め国民に謝罪。2005年にはスビク湾の婦女暴行事件で、駐留米兵4人逮捕。付加価値税の引き上げ。 2006年、日本との2国間自由貿易協定(FTA)が締結される。日比友好50周年。 2010年、 ベニグノ・アキノ3世が大統領就任。 2016年、ロドリゴ・ロア・ドゥテルテが大統領就任。
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