ウィーンからブラウンシュヴァイクへ
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「フォクトレンダー」の記事における「ウィーンからブラウンシュヴァイクへ」の解説
3代目となるペーター・ウィルヘルム・フリードリッヒ・リッター・フォン・フォクトレンダー(ドイツ語版)(独: Peter Wilhelm Friedrich Ritter von Voigtländer、1812年 - 1878年)はウィーンの工芸学校で学び、1839年にフォクトレンダー父子商会の社長に就任した。ちょうどその頃ダゲールの写真術が発表され、たまたまパリに滞在していたウィーン大学教授のアンドレアス・フォン・エッティングスハウゼン(ドイツ語版)がその詳細を知った。おりしも世界初のカメラ「ダゲレオタイプ」が発売されたがそのレンズはF17と暗く、直射日光下でも30分間の露光が必要で肖像撮影には苦痛を伴うものであった。前出のエッティングスハウゼンは明るいレンズの必要性を痛感してウィーンに戻るとジョセフ・マキシミリアン・ペッツヴァールに明るい肖像写真用レンズの設計を依頼、1840年にF3.7の写真用光学レンズの設計を受けると、ペッツヴァールからその製造を委任された。 また3代目フォクトレンダーは世界初の総金属製カメラを同年末に完成、1841年「ペッツヴァールの設計によるフォクトレンダー父子商会製造の肖像写真撮影用新ダゲレオタイプ装置」として発売した。このカメラはパリ万国博覧会に出品され大評判となり、喜んだオーストリア皇帝から3代フォクトレンダーは叙勲され、後に勲爵士(準男爵)に列すると「フォン」を名乗ることを許される。フォクトレンダー父子商会は1849年にドイツのブラウンシュヴァイクに支店を開設、1852年に転入届を提出すると1862年に移転、工場を拡張し海外にも代理店を置く国際企業となった。 4代目となるフリードリッヒ・ウィルヘルム・リッター・フォン・フォクトレンダー(独: Friedrich Wilhelm Ritter von Voigtländer、1846年3月7日 - 1924年12月1日)はウィーン生まれで父に従い1849年ブラウンシュヴァイクに転居し、工芸大学を卒業すると直ちに父の工場での実習に就き、その後マイスター制度に従ってフランクフルト、カールスルーエ、ベルリン、ロンドン、パリと旅をした。20歳のときにパリのハルナック・プラモフスキー工場で製作した顕微鏡がその後、長年にわたり同社に飾られていたという。父の病気のため1868年社長代行に就任、1878年その死に伴い社長に就任した。4代目は品質に厳格で、1895年頃まで工場を出る全製品を自分で検査していたという。会社の名声はますます高まったが、彼は驕ることなく常に同時代のライバルであるエルンスト・アッベやカール・アウグスト・フォン・シュタインハイルの業績を礼賛していた。フリードリッヒ・オットー・ショットが1886年に01209坩堝で発見した光学ガラスはショット社で生産され、これを使用したツアイス・アナスチグマートは1888年に発売。そのライセンス生産を1891年に開始すると、1898年1月12日にはフォクトレンダー父子商会を株式会社組織に改組した。研究開発にも積極的で、義兄弟でブラウンシュヴァイク工芸大学教授で後に学長となるハンス・ゾンマー(ドイツ語版)の理論的知識を実地に取り入れたり、重役に学者のダーヴィット・ケンプファー(ドイツ語版)、アドルフ・ミーテ(ドイツ語版)、カール・アウグスト・ハンス・ハルティンク(ドイツ語版)を招聘している。ケンプファーの設計で1896年2群6枚対称型のコリニア、ハルティンクの設計で1900年3群5枚のヘリアーと著名なレンズ製品を販売した。 肖像写真用ダゲレオタイプ装置の発売後は、ブラウンシュヴァイクへの移転などもあってか久しくカメラ製造していなかったが、1903年頃から再進出を計り、「カメラの中のストラディヴァリ」(Die Stradivari unter den Kameras! )を標語とし高品質のカメラを生産した。 2人の子どもに先立たれた4代目が1924年に没すると創業家の血脈は絶えたものの、アドルフ・エーマーが社長となって会社を統率した。1925年にドイツの化学大手企業のシェーリンク(ドイツ語版)が大株主となると経営を活性化・合理化し、1926年にはスコパーを発売している。
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