イギリスでの躍進
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1999年7月、イヴニング・スタンダード紙がマスコミでは初めてスタッキストに言及し、他のメディアもすぐに追随した。これはターナー賞の候補者となったトレーシー・エミンに対するマスコミの関心が高まっていたも大きかった。 初めてのスタッキスト展である「スタック!スタック!スタック!」がショーディッチにあるジョー・クロンプトンのギャラリー108で開催され、次いで「サー・ニコラス・セロタの辞任」展も開かれた。2000年の「リアル・ターナー賞展」はテート・ギャラリーでターナー賞のノミネート作品展が開催されるのと同時期に開催された。 「スタッキズム学生連合」グループもキャンバーウェル・カレッジ・オブ・アーツの学生によって2000年に設立され、自分たちの展示会を開いている。ステファン・ハワースは、このキャンバーウェル・カレッジ絵画科の学士課程を(自分の絵が原因で)落第になり、2002年にスタッキズム・インターナショナル・ギャラリーで「もしそれば絵じゃないというなら絵画の学位なんて要らないよ」展と題した初めての個展を開いた。 トムソンは、2001年イギリス総選挙にスタッキスト党の候補者としてイズリントン南及びフィンズベリー選挙区から立候補した。これは当時イギリス文科相であったクリス・スミスに対抗したものだったが、トムソンの得票数は108票(0.4%)だった。チャイルディッシュは、この時期にトムソンのリーダーシップを嫌ってグループを脱退している。 2002年から2005年までトムソンはロンドンのショーディッチにスタッキズム・インターナショナルセンター&ギャラリーを運営していた。2003年には「死んだ鮫はアートじゃない」と銘打って、1989年に一匹の鮫を初めて作品として一般公開した。これはエディー・サウンダースという男性が釣り上げ、自分が経営する電機ショップに飾っていたものだった。ダミアン・ハーストに先駆けること2年前であり、ハーストがそれをみて模倣した可能性もある、と彼らは主張した。 2003年には、アートを事実上独占していることを理由に、チャールズ・サーチをイギリス公正取引庁に報告している。しかしこの告発がまともに取り上げられることはなかった。同じ年に、友好団体としてスタッキズム・フォトグラフィー(英語版)がラリー・ダンスタンとアンディ・ブロックにより創設された。2005年にはスタッキストにより「ザ・ウォーカー」展から175点の絵画がテートに寄付されたが、テートの理事たちにより受取を拒否された。 2005年8月には、テートが理事の1人であるクリス・オフィリの作品『アッパー・ルーム(英語版)』を70万5,000ユーロで購入していることがマスコミに暴露された。ア・ギャラリー(英語版)のフレイザー・キー・スコットは、スタッキストとともにテート・ギャラリーの外でこのスキャンダルについてのデモ行動を行った。スコットは、デイリー・テレグラフ紙に、テート・ギャラリーの理事長ポール・マイナーズが購入価格の公開を拒んでいることは欺瞞的だと語っている。オフィリは、他のアーティストには作品をギャラリーに寄付するように呼びかけていたのである。2006年7月には、イギリスのチャリティ委員会がこの美術館に対して〔公益法人としての〕法的権限のない活動をしていると非難を行った。一方でスタッキストに対して、ニコラス・セロタは「公益のために活動している」と述べている。 2006年10月には、スタッキストとして初めてのコマーシャル・ギャラリー〔スペースを貸すだけでなく作者と契約して作品の販売もおこなう〕での企画展となる「ゴー・ウェスト」をウエスト・エンドのギャラリー、スペクトラム・ロンドン(英語版)で開催した。このことは、彼らがアートワールド(英語版)において「主力選手」の仲間入りをしたことを示すものだった。 2006年10月にはリバプール・ビエンナーレの開催中に、リヴァプール・ジョン・ムーア大学でスタッキズムの国際シンポジウムが開かれた。この企画を組んだのは、リバプール・スタッキストを立ち上げたナイーヴ・ジョンだった。同大学付属のリバプール美術デザイン学校にある68ホープ・ギャラリーでは同時に展示会も行われた。 2006年にはイギリス国内のスタッキスト・グループだけで63を数えた。代表的なメンバーは、ナイーヴ・ジョン、マークD、エルザ・ダックス、ポール・ハーヴェイ、ジョン・ケリー、ウダイヤン、ピーター・マッカードル、ピーター・マーフィー、レイチェル・ジョーダン、ガイ・デニング、アビー・ジャクソンたちである。ジョン・ボーンは自宅にスタッキズム・ウェールズの本部を構え、(主にウェールズの)絵を常設展示した。アーティストのマンディー・マッカーティンはその常連ゲストとなった。 2010年、ポール・ハーヴェイが描いたチャールズ・サーチの絵が、「この界隈ではあまりにも挑発的」だからという理由でロンドンのマドックス・ストリートにあるギャラリーからウィンドウ・ディスプレイでの展示を中止された。この作品は初めてロンドンのメイフェアで開かれた展示会である「ピエロのスタッキストは自らの手を汚す」の目玉であり、チーズの包装紙の光輪を背にしたチャールズサーチと羊を描いていた。サーチ・ギャラリーは、絵を展示してもサーチは「問題ないだろう」とコメントしたが、問題のギャラリーは展示会を打ち切ったと発表した。ハーヴェイは「僕はサーチをもっと親近感がわく、人間らしくみえる描き方をしたんだ。ばかげた決定だよ」と語った。スタッキストは法的措置も検討し、ギャラリーにはEメールを送って抗議した。結果として絵は元通りに展示され、展示会も継続になった。
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