アメリカ合衆国への復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:22 UTC 版)
「ジョン・ロス (チェロキー)」の記事における「アメリカ合衆国への復帰」の解説
チェロキー・ネーションはこの時の敗北でアメリカ連合国から棄てられた。その先祖の土地を犠牲にして確保した権利を失うことを恐れ、ロスは大衆の大半を北軍側との同盟に戻した。チェロキー族1個連隊が北軍に加わった。ロスはワシントンに行った。そこではチェロキー族指導層が、ロスは「我々の大義を弁護し、ワシントンで我々を代表し、我々の国民と我々の権利を守るために貴方達の影響力全てを行使してくれる」ようになることを期待した。 ロスは到着前にエイブラハム・リンカーン大統領に宛てた手紙で、条約の規定を互いに順守することに基づくチェロキー族の権利を守るための6点を説明した。条約はアメリカ合衆国が契約された約束を遂行しなかったことで無効になったと主張する巧みに編まれた議論で、チェロキー族の離反を問題にすることから解放した。リンカーンは経験を積んだ法律家であり、ロスの主張の論理について疑念を表明した。リンカーンはアメリカ合衆国がチェロキー族に対して特別の義務があるという観念を進んで認めようとはしなかったが、チェロキー族全体の権利が連邦政府によって守られていることには同意した。 ロスは1862年10月から1865年7月までワシントンに留まった。1863年、スタンド・ワティーの部隊がオクラホマのパークヒルにあるロスの家を焼き、チェロキー・ネーションの内部にある強い闘争を顕在化した。ロスは戦争が続く間、チェロキー族の条約による権利を守り、ネーションの福祉確保に努めた。その亡命政府はネーションに留まっている民衆から陳情と最新情報を得た。ロスは連邦議会や政府の者達と接触して、チェロキー族やその他西部のインディアン・ネーションを救うように政治活動を行った。ロスはリンカーンや陸軍長官のエドウィン・スタントン、およびインディアン問題コミッショナーのウィリアム・P・ドールとの対話ルートを確立し維持することができたが、その任務は骨の折れるものが続いた。その嘆願は同情をもって傾聴されたが、チェロキー族に対する政府の義務を確信させるまではできなかった。最終的にロスは、チェロキー族連隊が防衛のために武装することを認めさせ、そのことでチェロキー族が北部に戻ることが可能になった。チェロキー族の権利についてアメリカ合衆国との折衝を成功させることはできなかった。
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