アッシュル・バニパル
アッシュルバニパル
アッシュルバニパル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/15 07:57 UTC 版)
アッシュルバニパル(Assurbanipal[9]、在位:前668年[注釈 1] - 前631/627年頃)は、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の黄金期最後の王である。軍事遠征を積極的に行った。学問への関心も高く、アッシュルバニパルの図書館は有名。治世第17年に、バビロン王である兄、シャマシュ・シュム・ウキンが反乱を起こし、内戦が勃発。これを制した。死後、時を置かずアッシリア帝国は滅亡するが、治世末期の情報は少なくアッシュルバニパルの治世が帝国の崩壊とどのように関連するのかは不明瞭である。
- 1 アッシュルバニパルとは
- 2 アッシュルバニパルの概要
アッシュルバニパル(紀元前668年~紀元前631年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:23 UTC 版)
「新アッシリア帝国」の記事における「アッシュルバニパル(紀元前668年~紀元前631年)」の解説
詳細は「アッシュルバニパル」を参照 アッシュルバニパル(またはアッシュル・バニ・アプリ)は、父エサルハドンから王位を継いだ。彼はエジプトへの遠征と支配を続けた。その時はまだ、新アッシリア帝国は東のメディアや北のキンメリア、スキタイからの圧力には煩わされていなかった。紀元前664年、彼はエジプト人プサムテク1世をファラオとして据えた。しかし、リュディア王のギュゲスがキンメリア人に対抗するためにアッシリアに支援を求めても断られた後は、リュディアの傭兵がプサムテク1世の下に送られるようになった。紀元前652年までには、この属王は懲罰を受けることなく、公然とアッシリアからの独立を宣言することができた。特に、アッシュルバニパルの兄でバビロン王のシャマシュ・シュム・ウキンが、バビロニアのナショナリズムに影響されて同年に内戦が始まって以降は、アッシリアからの干渉の恐れはなくなっていた。だが、エジプトの新しい王朝は賢明にもアッシリアとの友好関係を維持した。 父エサルハドンが弟のアッシュルバニパルをアッシリア王に、兄のシャマシュ・シュム・ウキンを従属的な地位であるバビロン王にした時点で、既に避けられないものとなっていたのかもしれない。シャマシュ・シュム・ウキンは16年にわたりこの状態に耐えていたが、紀元前652年、ついに反乱に踏み切った。彼は属州民の兵士からなる大規模な反乱軍でアッシュルバニパルを包囲することを試みたが、これはほぼ失敗した。この反乱は紀元前648年まで続いたが、最終的にバビロンは陥落して略奪を受け、シャマシュ・シュム・ウキンは宮殿に火を放って自決した。その後、アッシュルバニパルはバビロニアの反乱を支援したカルデア人、アラブ人、ナバテア人を罰した。アッシュルバニパルはアラビア半島に侵入し、ケダル人を含むアラブ人を従わせ、大量の戦利品をニネヴェに持ち帰り、アラブの王アビエイト(Abiate)とユアテ(Uate)を殺した。死海の南側とアラビアの北部に住んでいたナバテア人や、メソポタミアの遠く南東方面に住んでいたカルデア人も征服し、服従するようになった。エラムは紀元前646年と640年に攻撃し、その首都スサを略奪した[要出典]。 バビロニアの反乱の鎮圧後、アッシュルバニパルは見渡すことのできる世界全ての支配者になったようだ。東ではエラムを荒廃させてアッシリアに屈服させ、マンナエ、ペルシア、メディアも属国となった。南ではバビロニアが占領され、カルデア人、アラブ人、スツ(Sutu)人とナバテア人が服従したほか、ヌビア帝国を滅ぼし、エジプトが貢納した。北ではスキタイ人とキンメリア人が征服され、アッシリアの領土から追い払われた。ウラルトゥ、フリュギア、コードゥエンスと新ヒッタイトは忠誠を誓い、リュディアはアッシリアによる保護を求めた。西にはアラム(シリア)、フェニキア、イスラエル、ユダ、サマッラー、キプロスが服従し、カリアのギリシア系住民、キリキア、カッパドキア、コンマゲネもアッシリアに貢納した[要出典]。 今やアッシリアはかつてないほど強大になった。しかし、バビロニアやエラムとその同盟軍との長い戦いと、帝国を支配し拡大するために全ての方向へ繰り返される遠征のために、アッシリアは疲弊していた。富と人的資源が次第に失われていった。荒廃した属州は帝国の国庫を満たすための富を提供することはできず、巨大な帝国を防衛するために十分な兵士を供給することもできなかった。 それゆえ、スキタイ人の新たな大軍に直面したとき、アッシリアは準備不足だった。今やスキタイ人は北方及び北東方面の国境を脅かし始めていた。また、ペルシアや先イラン人、エラムやマンナエと対立しつつも、イラン人は、紀元前1000年頃にはメソポタミアの東方に定住を開始し、アッシュルバニパルの治世末期には名目的な属国となっていたが、アッシリアがエラムを滅ぼしてから、イラン人の中ではメディアが強大化しつつあった。小アジアも、敵対的なスキタイ人とキンメリア人で満ちていた。彼らはウラルトゥやリュディア、フリュギアを荒らし回っていたが、アッシリア軍が追い払った。このように、アッシリア帝国を取り巻く環境は厳しさを増していたが、アッシュルバニパルが生きている間は、これらの潜在的な問題をどうにか抑えていることができた。
※この「アッシュルバニパル(紀元前668年~紀元前631年)」の解説は、「新アッシリア帝国」の解説の一部です。
「アッシュルバニパル(紀元前668年~紀元前631年)」を含む「新アッシリア帝国」の記事については、「新アッシリア帝国」の概要を参照ください。
- アッシュル・バニパルのページへのリンク