アッコの戦い
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「アッコ包囲戦 (1189年-1191年)」の記事における「アッコの戦い」の解説
10月4日、サラディン率いるイスラム軍はアッコ市の東側に移動し、ギーの野営地の前に立ちはだかった。ギー率いる十字軍は9月の終わりまでに、歩兵部隊30,000、騎馬隊2,000にまで膨れ上がっており、最低でも102隻のキリスト教徒の海岸が海からアッコ市を包囲していたとされる。一方イスラム軍は、エジプト、トルキスタン、そしてメソポタミアからの軍勢で構成されていた。 イスラム軍は街の東側に陣取り、半円状に広がって布陣して十字軍を待ち受けた。十字軍はそれに向かい合って二列に布陣。1列目には軽装のクロスボウ兵、2列目には重装騎兵が隊列を組んだ。アルスフの戦い以降、十字軍は体系だった作戦をもとに遠征を進めていたのだが、この戦いは、イスラム軍左翼部隊とテンプル騎士団が互いに指揮系統を外れて勝手に戦闘を始めたことで幕が下された。十字軍の攻撃は成功し、イスラム軍は他の部隊から右翼部隊に援軍を差し向けなければならなくなった。十字軍は白兵戦の準備をしたクロスボウ兵からなる中翼部隊をそのまま前進させ、大した抵抗を受けることもなく、サラディン軍を敗走させることに成功した。 しかし十字軍は広い戦場のあちらこちらでムスリム軍を追撃しており、兵は分散してしまっていた。それを見つけたサラディンは敗走している自軍を再び集めてその中の軽装騎兵を、戦闘が一段落して戦利品と共に野営地に引き上げている十字軍に差し向け、逆に攻めかかった。打ち破ったはずのムスリム軍に背後から攻めかけられた十字軍兵士は混乱してまともな抵抗ができず、ムスリム騎兵は十字軍左翼から新手の部隊が救援に来るまで、逃げ惑う十字軍兵を殺戮し続けた。ギーはこの状況を打破すべく、野営地にてアッコン市に籠るムスリム守備兵の備えとして残されていた部隊を十字軍団の戦列に援軍として加えた。それを市内から見ていたムスリム守備隊は、十字軍の野営地が無防備であることを見抜き、城内から打って出て、十字軍左翼部隊に背後から攻撃を仕掛けた。彼らは十字軍の左翼に陣を構えていたテンプル騎士団らに襲いかかり、多くの損害を十字軍に与えた。テンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォール(英語版)らは戦死し、コンラートもギーの救援が必要となったほどだった。戦闘の終盤、十字軍はムスリム軍を追い払うことができたが、十字軍側の損害はひどく、4,000・5,000〜10,000人が倒されたとされている。しかしサラディン側としても、この戦闘だけで十字軍を追い出すことはできず、完全な勝利とはいえないものとなった。
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