アッコの戦いとは? わかりやすく解説

アッコの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:48 UTC 版)

アッコ包囲戦 (1189年-1191年)」の記事における「アッコの戦い」の解説

10月4日サラディン率いイスラム軍はアッコ市の東側移動しギー野営地前に立ちはだかったギー率い十字軍9月終わりまでに、歩兵部隊30,000騎馬隊2,000にまで膨れ上がっており、最低でも102隻のキリスト教徒海岸が海からアッコ市を包囲していたとされる一方イスラム軍は、エジプトトルキスタン、そしてメソポタミアからの軍勢構成されていた。 イスラム軍は街の東側陣取り半円状広がって布陣して十字軍待ち受けた十字軍はそれに向かい合って二列に布陣。1列目には軽装クロスボウ兵、2列目には重装騎兵隊列組んだアルスフの戦い以降十字軍体系だった作戦をもとに遠征進めていたのだが、この戦いは、イスラム左翼部隊テンプル騎士団互いに指揮系統外れて勝手に戦闘始めたことで幕が下された十字軍の攻撃成功しイスラム軍は他の部隊から右翼部隊援軍差し向けなければならなくなった十字軍白兵戦準備をしたクロスボウからなる翼部隊をそのまま前進させ、大した抵抗を受けることもなくサラディン軍を敗走させることに成功した。 しかし十字軍は広い戦場あちらこちらムスリム軍を追撃しており、兵は分散してしまっていた。それを見つけたサラディン敗走している自軍を再び集めてその中の軽装騎兵を、戦闘一段落して戦利品と共に野営地引き上げている十字軍差し向け逆に攻めかかった打ち破ったはずのムスリム軍に背後から攻めかけられ十字軍兵士混乱してまともな抵抗ができず、ムスリム騎兵十字軍左翼から新手部隊救援に来るまで、逃げ惑う十字軍兵を殺戮続けたギーはこの状況打破すべく、野営地にてアッコン市に籠るムスリム守備兵備えとして残されていた部隊十字軍団の戦列援軍として加えた。それを市内から見ていたムスリム守備隊は、十字軍野営地無防備であることを見抜き城内から打って出て、十字軍左翼部隊背後から攻撃仕掛けた。彼らは十字軍左翼に陣を構えていたテンプル騎士団らに襲いかかり、多く損害十字軍与えたテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォール(英語版)らは戦死しコンラートギー救援が必要となったほどだった。戦闘終盤十字軍ムスリム軍を追い払うことができたが、十字軍側の損害はひどく、4,000・5,00010,000人が倒されたとされている。しかしサラディン側としても、この戦闘だけで十字軍追い出すことはできず、完全な勝利とはいえないものとなった

※この「アッコの戦い」の解説は、「アッコ包囲戦 (1189年-1191年)」の解説の一部です。
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