『羊太夫伝説』とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『羊太夫伝説』の意味・解説 

『羊太夫伝説』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:56 UTC 版)

多胡羊太夫」の記事における「『羊太夫伝説』」の解説

伊藤東涯による『盍簪録』(1720年享保5年))や青木昆陽による『夜話小録』(1745年延享2年))をはじめとする数多く古文書古老伝承などに、次のような『羊太夫伝説』がみられる。この『羊太夫伝説』で、筆録された写本地方史誌等に集録されているものは、二十数種あるとされる。この話の舞台は、群馬県西南部を西から東に流れ鏑川流域沿った地域秩父地方である。それぞれの『羊太夫伝説』にほぼ共通するあらすじは、次のようなものである。 昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者名馬権田栗毛引かせて、空を飛んで都に日参していた。あるとき、羊太夫昼寝をしている小脛両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫参内できなくなった朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反企てていると考え軍勢派遣し朝敵として羊太夫討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の化して飛び去ったが、池村自殺した八束小脛も金の化身し飛び去ったとされる。 しかし、『羊太夫伝説』のなかには著し差異みられる古文書もある。『神道集』(文和延文年間1352年1361年においては羊太夫は、履中天皇時代400年405年)の人として登場する。この話では、羊太夫自身神通力持ち、都と上野国日帰りしたという話が残されている。 また、687年に創基した釈迦尊寺群馬県前橋市元総社町)には、羊太夫のものとされる墓がある。寺の由来では、中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連一味同心として、蒼海元総社)に流罪となるが、後に大赦を受け、菊野の子青海中臣羊太夫が、玉照姫聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏安置所として、釈迦尊寺建立したとされる現代においても、群馬県中心に舞踊多胡碑 羊太夫の燈灯」や和太鼓組曲「羊伝説」が披露されている。

※この「『羊太夫伝説』」の解説は、「多胡羊太夫」の解説の一部です。
「『羊太夫伝説』」を含む「多胡羊太夫」の記事については、「多胡羊太夫」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『羊太夫伝説』」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『羊太夫伝説』」の関連用語

『羊太夫伝説』のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『羊太夫伝説』のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの多胡羊太夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS