『羊太夫伝説』
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伊藤東涯による『盍簪録』(1720年(享保5年))や青木昆陽による『夜話小録』(1745年(延享2年))をはじめとする数多くの古文書や古老の伝承などに、次のような『羊太夫伝説』がみられる。この『羊太夫伝説』で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、二十数種あるとされる。この話の舞台は、群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方である。それぞれの『羊太夫伝説』にほぼ共通するあらすじは、次のようなものである。 昔、この地に羊太夫という者がいて、神通力を使う八束小脛(ヤツカコハギ。八束脛ともいう)という従者に名馬権田栗毛を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜いてしまったが、以後小脛は空を飛べなくなってしまい、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、金の蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。八束小脛も金の蝶に化身し飛び去ったとされる。 しかし、『羊太夫伝説』のなかには、著しい差異がみられる古文書もある。『神道集』(文和・延文年間・1352年〜1361年)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(400年〜405年)の人として登場する。この話では、羊太夫自身が神通力を持ち、都と上野国を日帰りしたという話が残されている。 また、687年に創基した釈迦尊寺(群馬県前橋市元総社町)には、羊太夫のものとされる墓がある。寺の由来では、中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となるが、後に大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫が、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立したとされる。 現代においても、群馬県を中心に舞踊「多胡碑 羊太夫の燈灯」や和太鼓組曲「羊伝説」が披露されている。
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