魚津城の戦い 魚津在城十三将

魚津城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/22 23:34 UTC 版)

魚津在城十三将

中条景泰 - 竹俣慶綱 - 吉江信景 - 寺嶋長資 - 蓼沼泰重 - 藤丸勝俊 - 亀田長乗 - 若林家吉 - 石口広宗 - 安部政吉 - 吉江宗信 - 山本寺景長 - (吉江景資

中条、竹俣、吉江信景は上杉謙信の代からの側近。藤丸、亀田、若林らは、元加賀一向宗門徒の国衆で、謙信の加賀侵攻に伴い上杉氏の被官となった者たちで、若林家吉は天正2年7月に謙信が加賀に侵攻した際の一揆側の主将・若林長門守の一族と考えられる。 上杉一門からは山本寺も加わっている。吉江景資の名は「魚津在城衆十二名連署状」にはないが、同時期に戦死したと考えられており、ここでは含めることとした。なお、中条と蓼沼は第1廓を守備していたことが史料から判っている(『上杉年譜』、『大日本史料』、『越佐史料』)[4]

逸話

景勝が撤退した後、落城が近い事を悟った上杉方の守将13人が自刃する際、自分の耳に穴を開けて、自分の名前を書いた木札を全員で結び自刃したという。

この戦いでは、織田軍が鉄砲のほかに大砲を使用していたことが確認されているが、これは一次資料で確認できる大砲の使用例としては北陸最古である。ただしこの大砲は当初から不良品で、前田利家は兄の前田安勝に修理を依頼している。修理は6月1日に完了したものの、魚津城の落城は6月3日なのでほとんど役に立っていなかった様である[5]

脚注

関連項目

外部リンク


  1. ^ 『白川村史』
  2. ^ 信長公記』には一切記述がないが、他にも信長公記には越後との直接的な争乱に関する記述は採られていない。
  3. ^ 「加賀藩文書」(前田育徳会など)に加増や城の受け取りを記した記録(ただし、豊臣家からの新川郡宛行状がなく江戸期に問題にされる)。
  4. ^ 井上鋭夫『一向一揆の研究』
  5. ^ 佐伯哲也編『北陸の名城を歩く 富山編』(吉川弘文館発行、2022年9月1日)217頁


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