平宗盛 伝説

平宗盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 06:18 UTC 版)

伝説

これらの逸話は伝説であり、真実であるか否かは不明である。

名馬の強奪
源頼政の嫡男・仲綱の所有する名馬「木下(このした)」を欲しがり、地位と権勢にものをいわせて強引に借り受けると二度と返さず、その馬の名前を「仲綱」と改め、馬の尻に「仲綱」の焼印までして社交の場に率いてゆき、源仲綱に屈辱を味わわせる。その恨みが後の源頼政の挙兵の一因とされる[74]
源競による報復
源頼政が挙兵すると、その配下にいた渡辺党の武者で武勇の誉れ高い源競(みなもと の きそう)は、愛馬を奪われた仲綱の恨みを晴らすため、偽って宗盛に寝返り、競を気に入った宗盛より名馬を譲り受ける。既に自分の名馬を持っているのにまた他人の名馬(仲綱の「木下」)を欲しがる宗盛を軽蔑した競は、その名馬で再び頼政の陣に戻り、その馬のたてがみと尾の毛を切り、尻に「昔は煖廷、今は平宗盛入道」の焼印をして平家方に突き返す。激怒した宗盛は自らの手で競を八つ裂きにするため、配下の武者たちに競を殺さずに捕えるよう命じるが、競は獅子奮迅の活躍の末に壮絶に斬り死に、平家方の武者たちにまで賞賛される。翻って宗盛の狭量さは同じ平家方の武者たちからも軽蔑される[74]
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦いにおいて、平氏の大敗が決定的になり、一門が次々と入水していく中、棟梁である宗盛はうろたえるばかりであった。それを見た平氏の諸将はあまりのみっともなさに嫌気が差し、ついには宗盛を捕まえて、無理やり海に突き落とした。しかし、泳ぎの名手であった宗盛は、源氏の兵に助けられた。宗盛は長男清宗と同様、肥満だったため浮きやすかったという[74]
頼朝との面会
頼朝と面会した宗盛は、命惜しさのために、頼朝に対し媚びへつらい、それを見た源氏の諸将は宗盛をあざ笑った。頼朝は、宗盛の名を平末国と改名させた[74]
徳子との関係
妹である建礼門院徳子と通じており、安徳天皇は、徳子と宗盛との間にできた子であるといわれた[75]
時子との関係
壇ノ浦の戦いにおいて、醜態をさらす息子を見た時子は、宗盛は清盛と自分の子ではないと言った。
清盛との間にできた子が女子であったため、男子を望んでいた清盛のことを考え、京の傘売りの子と実子を取り替えたのだという。捕虜になった際に宗盛は自らこの説を認め、平家の血筋でないことを理由に命乞いをしたとされる[75]
捕虜となったその後
宗盛は捕虜として、今の逗子付近にしばらく軟禁されていた。地元の領民は、宗盛を始めは快く思っていなかったが、子供と戯れるなど、他の武士には欠けている人間的な情愛を感じて徐々に心を許したという。処刑後は宗盛の死を悼む者が多く、頼朝へ報告する者がいたが不問に付したという。

注釈

  1. ^ これは左大史・小槻隆職が左少弁・藤原行隆から聞いた内密の話を、隆職が兼実の邸を訪問した際に語ったものである。「天下の事、偏に前幕下の最なり。異論あるべからず」は清盛の発言とするのが一般的な解釈であるが、この発言の前に「行隆を召し仰せて云はく」という記述がある。その丁寧な語法から、行隆を召してこの発言をしたのは後白河法皇であるという説もある[18]
  2. ^ 『玉葉』寿永2年6月5日条は、北陸追討軍を4万余騎とする。
  3. ^ 『玉葉』寿永2年7月21日条は、1,080騎とする。資盛の出撃は宗盛の命令ではなく、後白河法皇の宣旨によるもので、後白河法皇は資盛を密かに見送っている。後白河法皇と小松家の関係の深さを表すものといえる。
  4. ^ 女系では宗盛の娘が平通盛(宗盛の父清盛の異母弟平教盛の嫡男、宗盛の従弟)に嫁ぎ、通衡を生んでいる。外孫・通衡は後に出家している(没年は不明)。なお、「鶴岡八幡宮供養次第」によると鎌倉幕府第3代将軍源実朝暗殺の際に嫌疑をかけられた教盛の孫とされる僧がいるが、出家した通衡か教盛の別の孫なのかは不明。いずれにせよ、現段階で通衡が記録上では宗盛最後の直系子孫となる。

出典

  1. ^ 兵範記』同日条
  2. ^ 公卿補任
  3. ^ 山槐記』応保元年11月18日条
  4. ^ 『兵範記』仁安元年11月13日条
  5. ^ 『兵範記』嘉応元年12月23日条
  6. ^ 玉葉』同日条
  7. ^ 『玉葉』治承3年11月14日条
  8. ^ 『玉葉』治承4年5月21日条
  9. ^ 『玉葉』治承4年5月22日条
  10. ^ 『玉葉』治承4年8月12日条
  11. ^ 『玉葉』治承4年11月5日条
  12. ^ 吉記』治承4年11月12日条
  13. ^ 『玉葉』治承4年12月14日条
  14. ^ 『玉葉』治承4年12月16日条
  15. ^ 『玉葉』治承5年2月26日条
  16. ^ 『玉葉』閏2月1日条
  17. ^ 『玉葉』治承5年閏2月5日条
  18. ^ 高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社、2007年
  19. ^ 『玉葉』治承5年閏2月6日条
  20. ^ 『玉葉』治承5年閏2月7日条
  21. ^ a b c 『吉記』同日条
  22. ^ 『玉葉』治承5年3月28日条
  23. ^ 『玉葉』治承5年7月1日条
  24. ^ 『玉葉』養和元年7月24日条
  25. ^ 『玉葉』養和元年8月1日条
  26. ^ a b c 百錬抄
  27. ^ 『玉葉』養和元年8月15日条
  28. ^ 『吉記』養和元年9月10日条
  29. ^ 『玉葉』養和元年9月12日条
  30. ^ 『玉葉』養和元年9月6日条
  31. ^ 『玉葉』養和元年10月10日条
  32. ^ 『吉記』養和元年11月20日条
  33. ^ a b c d 『吉記』
  34. ^ 明月記
  35. ^ 『玉葉』養和2年3月9日条
  36. ^ 『玉葉』養和2年3月12日条
  37. ^ a b 『玉葉』
  38. ^ a b 『百錬抄』『玉葉』『吉記』
  39. ^ 『吉記』寿永2年2月21日条
  40. ^ 『玉葉』寿永2年4月14日条
  41. ^ 『玉葉』寿永2年5月16日条
  42. ^ 『吉記』同日条、『玉葉』寿永2年6月9日条
  43. ^ 『吉記』寿永2年6月18日条
  44. ^ 『吉記』寿永2年6月29日条
  45. ^ 『百錬抄』7月8日条、『吉記』7月12日条
  46. ^ 『吉記』寿永2年7月10日条
  47. ^ a b 『吉記』寿永2年7月16日条
  48. ^ 『吉記』寿永2年7月21日条
  49. ^ 『玉葉』寿永2年7月22日条、『吉記』同7月24日条
  50. ^ 『吉記』寿永2年7月24日条
  51. ^ 『玉葉』養和元年9月19日、29日条
  52. ^ 『愚管抄』
  53. ^ 『吉記』寿永2年7月25日条
  54. ^ 『玉葉』寿永2年11月14日条
  55. ^ 『玉葉』寿永2年9月21日条
  56. ^ 『玉葉』寿永2年閏10月2日条
  57. ^ 『玉葉』寿永2年閏10月21日条
  58. ^ 『玉葉』寿永2年12月2日条
  59. ^ 『玉葉』寿永2年11月27日条
  60. ^ 『玉葉』寿永3年正月9日条
  61. ^ 『玉葉』寿永3年正月13日条
  62. ^ 『百錬抄』寿永3年正月8日条
  63. ^ 『百錬抄』寿永3年正月29日条、『玉葉』同2月1日条
  64. ^ 『玉葉』寿永3年2月8日条
  65. ^ 『玉葉』2月10日条
  66. ^ 『吾妻鏡』寿永3年2月20日
  67. ^ 『玉葉』寿永3年2月19日条
  68. ^ 『玉葉』寿永3年2月29日条
  69. ^ 『玉葉』寿永3年3月10日条
  70. ^ 『玉葉』『百錬抄』『吾妻鏡』同日条
  71. ^ 『玉葉』同日条
  72. ^ 平宗盛 斬首の地に「首洗い池」 野洲大篠原 地元住民ら復元『京都新聞』2021年(令和3年)6月15日朝刊、滋賀版25面
  73. ^ 元木泰雄「平重盛論」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収
  74. ^ a b c d 『平家物語』
  75. ^ a b 源平盛衰記


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