鹿鳴館 鹿鳴館時代

鹿鳴館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 09:19 UTC 版)

鹿鳴館(ろくめいかん、旧字体鹿鳴館󠄁)は、1883年(明治16年)に日本外務卿井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である[2]


注釈

  1. ^ 欧米への留学や在外公館での勤務・在住経験のある日本人(井上馨夫妻や鍋島直大榮子夫妻、大山捨松など)はそうした流儀を身につけていたが、ごく一部にとどまった。
  2. ^ 日本徴兵保険はその後、大和生命保険を経て、2018年現在はプルデンシャルジブラルタファイナンシャル生命保険として営業している。
  3. ^ 1940年3月10日、東京日日新聞に「鹿鳴館一部保存 生きた明治史の記念」という見出しで掲載された記事にいきさつが記述されている。
  4. ^ また、鹿鳴館の取壊しに立会ったひとりに菊地重郎(博物館明治村の運営に参画した人物)がおり、取り壊しについて以下のように回想した。「私が塀越しでなく、中に入って最後の姿を見ることができたのは取壊し直前のガランとした昭和15年の荒廃した最後の姿だった。もちろん私は若かったし、ただの傍観者にすぎなかった。そうはいっても最後の姿を自分の目で建築家として見届けえた幸いを感謝せずにはいられない」(「饒舌・鹿鳴館について」『都市住宅』83号p.40)。

出典

  1. ^ a b 千代田区観光協会
  2. ^ a b c 百科事典マイペディア(コトバンク)
  3. ^ 諸橋(1993)172頁。「呦呦鹿鳴 食野之苹」(ゆうゆうとして鹿の鳴くあり、野のよもぎを食らう)。天子が臣下や客を招いてごちそうする場合の詩である。
  4. ^ 清水勲『ビゴーが見た日本人』講談社学術文庫、2001年、p114-115。風刺雑誌『トバエ』に掲載されたもの。
  5. ^ 近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社、1980年(講談社文庫、1983年)
  6. ^ 東京歴史遺産~明治・文明開化の面影めぐり~「鹿鳴館~やがて哀しき夢の跡~
  7. ^ 日本プロファイル研究所 http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2013/10/post-00da.html
  8. ^ “700人、ステップ軽やか 「ダンスの日」前に、札幌でイベント”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2014年11月25日). http://www.hokkaido-np.co.jp/news/sapporo/576427.html 


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