鮎貝盛次 鮎貝盛次の概要

鮎貝盛次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 16:03 UTC 版)

 
鮎貝盛次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治元年(1555年
死没 寛永元年10月3日1624年11月13日
改名 宗重(初名)→盛次→日傾斎(号)
別名 通称:兵庫、安房
墓所 宮城県柴田郡堤邑の持明院
主君 伊達輝宗政宗
氏族 鮎貝氏
父母 父:鮎貝盛宗
兄弟 盛次、高玉茂兵衛、左近宗倶
忠旨(宗信)、宗益
テンプレートを表示

生涯

弘治元年(1555年)、鮎貝盛宗の子として、出羽置賜郡下長井荘の鮎貝城[1][2]にて誕生。

天正2年(1574年)9月、芋川の敵を討取り、伊達輝宗に献上した。鮎貝城は最上氏との境に位置しており、鮎貝氏は伊達氏側の臣として家格は一家の上座にあった。天正12年(1584年)、輝宗が家督を政宗に譲り隠居した際、隠居城となる館山城が完成するまで、居城である鮎貝城に輝宗を迎えている。

天正15年(1587年)10月14日、長男・忠旨(宗信)が、最上義光の策で謀反を起こし鮎貝城に拠って兵を上げた。盛次は忠旨に説得を試みたが失敗、高玉城に帰還した盛次は政宗に討伐を要請する。政宗は湯目景康泉田重光、宮沢元実らの軍勢を差し向け、鮎貝城を攻撃した。忠旨は最上義光へ援軍を要請したが後援は来ず、忠旨は籠城を諦め夜半密かに城から脱出し、最上領へ逃亡した。鮎貝城に残存していた数百人は討ち取られた。その後、盛次は政宗より忠義の志を賞され、柴田郡堤邑の領地を下賜され、家督は次男・宗益が継承し、一家の上席に復した。

天正16年(1588年)1月5日、盛次は米沢城に登城し、政宗に新年の御礼を述べる。天正19年(1591年)、奥州再仕置きにより、政宗が岩出山へ移る際、盛次も従い、柴田郡堤邑に移った。

寛永元年(1624年)死去。享年70。

系譜

  • 父:鮎貝盛宗
  • 母:不詳
    • 弟:高玉茂兵衛
    • 弟:左近宗倶
  • 妻:不詳
    • 長男:鮎貝忠旨(宗信)(最上氏に通じ謀反を謀るが失敗。最上領に出奔する。妻は最上義光の姉)
    • 次男:鮎貝宗益(宗定)(鮎貝家を相続)

出典

関連項目

登場作品


  1. ^ 現在の白鷹町鮎貝。
  2. ^ 現在は本丸跡に鮎貝八幡宮社殿がある。


「鮎貝盛次」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鮎貝盛次」の関連用語

鮎貝盛次のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鮎貝盛次のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鮎貝盛次 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS