高群逸枝 高群逸枝の概要

高群逸枝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 05:38 UTC 版)

高群逸枝(1928年)

熊本県下益城郡豊川村南豊崎(現、宇城市)に、小学校校長であった高群勝太郎(嶇泉)の長女として誕生。若い頃より詩人として活躍し、九州新聞などで短歌や詩を発表する。のち、東京にその活躍場所を求めて移転する。アナーキズムと出会って女性史研究を志し、平塚らいてうと共に女性運動を始める傍ら、女性史研究を進め、『母系制の研究』や『招婿婚の研究』などの業績を残し、女性史研究分野の発展に寄与した。ただし、鷲見等曜と洞富雄は高群の説に対して誤謬を指摘している。また、栗原弘は高群が自説に都合の良い恣意的な文献解釈を行っていると批判している[1]


  1. ^ 栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年、340-351頁。 
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)17頁
  3. ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)130頁
  4. ^ 『高群逸枝1894-1964 別冊環26』芹沢俊介、藤原書店、2022、p42
  5. ^ a b 学位論文データベースによる
  6. ^ 荒木精之編著『熊本の文学碑』熊本日日新聞社、1979、124頁


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