陸軍航空士官学校 歴代校長

陸軍航空士官学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 00:07 UTC 版)

歴代校長

陸士分校長
  • 木下敏 少将:1937年10月1日 - 1938年12月9日
航空士官学校長
  • 木下敏 少将:1938年12月10日 -(在任中に中将)
  • 寺倉正三 少将:1939年7月1日 -(在任中に中将)
  • 木下敏 中将:1941年9月15日 -
  • 遠藤三郎 中将:1942年12月22日 -
  • 菅原道大 中将:1943年5月1日 -
  • 徳川好敏 中将:1944年3月28日 - 1945年9月20日召集解除

卒業生

階級は最終階級であり、自衛隊や各国軍の階級ではない。

士官候補生

50期

1937年10月1日入校(当時は所沢分校)、58名、陸軍士官学校予科を卒業し隊附勤務を終え、市ヶ谷の陸士本科ですでに航空兵科士官候補生として1年1か月の教育を受けていた。1938年6月29日卒業(当時は豊岡分校)、53名、操縦53(偵察16戦闘6軽爆12重爆19)。戦没者[注釈 14]25名。

51期

1937年10月1日入校(当時は所沢分校)、90名、陸軍士官学校予科を卒業し隊附勤務半年を終え入校。1939年4月27日卒業 95名(卒業延期[注釈 15]の50期5名を含む)。操縦84(偵察15戦闘30軽爆15重爆24)通信11、昭和天皇行幸。戦没者57名。

52期

1937年11月16日入校(当時は所沢分校)、128名。1939年9月7日卒業。127名、操縦101(偵察15戦闘40軽爆17重爆29)技術12通信14、昭和天皇行幸(座間にて陸軍士官学校と合同の卒業式)。戦没者73名。

  • 少佐:吉田穆
53期

1938年6月1日入校(当時は豊岡分校)、370名。1940年6月21日卒業、357名、操縦307(偵察68戦闘90軽爆60重爆89)技術27通信23 東條英機航空総監臨席。戦没者234名。

54期

1938年11月21日入校(当時は豊岡分校)、409名。1941年3月28日卒業、395名、操縦298(偵察66戦闘82軽爆60重爆90)技術37通信36偵察24、昭和天皇行幸。戦没者254名。

55期

1939年11月15日入校、646名、短期間の隊附を実施。1942年3月27日卒業、636名、操縦340(司偵49軍偵20戦闘140軽爆55重爆76)技術132通信125偵察39、昭和天皇行幸。戦没者317名。

  • 中佐:笹川勉(2階級特進)
  • 大尉:曽我邦夫(戦死)・根木基夫(戦死)・吉田好雄・生田惇・寺山欽造・古賀忠良(マニラ迎撃戦で戦死、没後進級)・竹田五郎(統合幕僚会議議長たる空将)
56期

1941年6月2日入校、638名、陸軍予科士官学校を卒業し約二ヶ月の隊附を経た後の入校、他に満洲国陸軍軍官学校候補生1期15名。1943年5月26日卒業、618名、操縦408(司偵45軍偵19戦闘200軽爆46重爆47襲撃31航法20)技術120通信90(うち気象10)。戦没者357名。

  • 少佐:広森達郎(2階級特進)・敦賀真二(2階級特進)・石川廣(2階級特進)・遠藤栄(2階級特進)・山本達夫(2階級特進)
  • 大尉:藤山二典(没後進級)・安藤浩(没後進級)
  • 中尉:尾形憲法政大学名誉教授
57期

1942年7月13日入校、634名、予科士官学校在校中に航空士官学校へ約2か月の派遣教育、他に満洲国陸軍軍官学校候補生2期15名。1943年1月7日編入、120名、陸軍士官学校で教育を受けていた歩兵等の士官候補生が航空科に転科。1944年3月20日卒業、751名、操縦537(司偵45軍偵19近戦210遠戦89軽爆45重爆79襲撃35航法15)偵察16爆撃8技術100通信90(うち気象8)、少尉候補24期前期、特別志願将校学生4期と合同の卒業式 昭和天皇行幸。1944年7月1日少尉任官。戦没者337名。

  • 大尉:猫橋芳朗(2階級特進)・堀内清松(没後進級、戦死(終戦後、軍命遂行中))
  • 中尉:天野三郎(2階級特進)・柴田禎男(2階級特進)・西村正英(2階級特進)・藤井信(2階級特進)・宮田淳作(2階級特進)・森本秀郎(2階級特進)
58期

1943年12月14日入校、1,200名[注釈 16]、予科在校中に約20日間の集団隊附勤務を含む航空士官学校へ約50日間の派遣教育、他に満洲国陸軍軍官学校候補生3期30名。1945年3月20日卒業、1176名、操縦790(司偵79戦闘525単襲31双襲45重爆110)航法20爆撃16偵察39整備144通信158気象9、航空総監阿南惟幾大将臨席。1945年7月1日少尉任官。

戦力となる以前の錬成訓練課程中に終戦となったため戦没者の詳細は不明であるが、操縦分科は強引ともいえる速成教育、経験不足の教官の増加、飛行練習に使用する燃料の粗悪化により事故が多発し在校中の殉職者だけでも6名が確認される。

59期

1944年3月29日入校、1,608名、他兵科より約半年繰り上げて3月17日に予科士官学校を卒業、他に満洲国陸軍軍官学校候補生4期30名。1944年4月22日、兵長に進級。1944年6月11日、以後20日間の隊附教育。1944年6月17日、伍長に進級。1944年8月17日、軍曹に進級。1945年8月終戦により復員。

終戦後に特別に卒業資格を付与[注釈 17])。

60期

1945年3月27日入校、3,004名、うち1499名が1月28日予科士官学校卒業前に一次生としてすでに派遣、他に満洲国陸軍軍官学校候補生6期30名。1945年6月18日伍長に進級。1945年8月終戦により復員。

  • 矢部廣武(陸将)・等松岑夫・森繁弘(統合幕僚会議議長たる空将)・中村守雄(陸上幕僚長たる陸将)[3]横地光明(陸将)[3]張志良(張本昇男、大韓民国空軍参謀総長、大韓民国空軍中将)
61期

未入校、予科士官学校で航空科を指定された生徒。

少尉候補者学生

18期前期 

1937年10月11日入校(当時は所沢分校)49名。
1938年3月31日卒業(当時は所沢分校)49名。

18期後期 

1938年5月10日入校(当時は豊岡分校)51名(准尉17曹長26不明8)平均年齢27.3歳。1938年11月9日卒業(当時は豊岡分校)51名。戦没者12名。

19期

1938年12月2日入校(当時は豊岡分校)110名(准尉100曹長10)平均年齢26.9歳。1939年9月7日卒業、110名(座間にて士官候補生と合同の卒業式)、昭和天皇行幸。戦没者33名。

20期

1939年12月1日入校 180名 24歳から29歳までの准尉・曹長、平均年齢27歳。1940年11月20日卒業、177名、東久邇宮稔彦王台臨。戦没者41名。

21期

1940年12月1日入校 234名 22歳から34歳までの准尉82曹長152、平均年齢26歳。少年飛行兵出身者31名(1期23、2期8)。1941年7月29日卒業 232名(11月予定を卒業日繰上げ)。戦没者73名。

22期

1942年6月1日入校、315名、22歳から29歳までの准尉289曹長26、平均年齢26歳。少年飛行兵出身者40名(操縦14 技術26)。1942年11月28日卒業、315名。戦没者83名。

23期

1942年12月11日入校 494名 22歳から34歳までの准尉268曹長226、平均年齢26.5歳、うち少年飛行兵出身者91名(操縦25:1期2、2期5、3期5、4期13、技術66:1期6、2期60)。1943年8月5日繰上げ卒業、操縦者32名。1943年9月5日卒業、456名。戦没者89名。

24期前期

1943年10月11日入校 498名 22歳から29歳までの准尉147曹長342少飛出身軍曹7不明2、平均年齢25歳、うち少年飛行兵出身者69名(操縦15:1期1、2期0、3期3、4期4、5期7 技術54:1期5、2期17、3期32)。1944年3月20日卒業 494名。士官候補生57期、特別志願将校学生4期と合同の卒業式 昭和天皇行幸。戦没者56名。

24期後期 

1944年4月1日入校 625名。1944年5月以後各地実施学校で教育を受ける。仙台陸軍飛行学校(382名)、陸軍航空通信学校(102名)陸軍航空整備学校(79名)鉾田陸軍飛行学校(20名)浜松陸軍飛行学校(20名)下志津陸軍飛行学校(11名)、明野陸軍飛行学校(11名)。戦没者57名。

特別志願将校学生

1期

1940年12月1日入校、詳細不明。

2期

1941年12月2日入校、12名、大尉と若干の中尉 他は詳細不明。1942年5月30日卒業、12名。

3期

1943年1月10日入校 19名 大尉12名中尉7名。1943年9月15日卒業 18名(病気により兵役免除1名)。

4期

1943年10月10日入校 43名 25歳から36歳までの大尉27中尉16、平均年齢29.8歳 操縦者10名。1944年3月20日卒業 43名 操縦10(偵察1戦闘6重爆3)。士官候補生57期、少尉候補者24期前期と合同の卒業式 昭和天皇行幸。

これをもって航空士官学校での特別志願将校学生教育課程は取りやめとなった。

外国留学生

脚注


注釈

  1. ^ 陸軍は1940年(昭和15年)9月に兵科区分を廃止したが、歩兵、砲兵、航空兵等の区分は事実上終戦まで存続し、士官候補生の教育もその区分に応じた専門教育があった。航空兵とそれ以外の歩兵等との区別を容易にするために、便宜上この項では年代によらず「兵科」という表現で統一する。
  2. ^ 「陸軍航空兵科将校ト為スベキ生徒ノ教育ノ複雑ニシテ且専門化セルニ伴ヒ従来当該教育ニ任ジアリシ陸軍士官学校分校ヲ独立セシメ新ニ陸軍航空士官学校ヲ新設スルノ要アルニ由ル」(勅令上奏文書の理由書)
  3. ^ これに先立つ3日前の12月7日に陸軍航空総監部が設置されたことが独立の下地になっている。
  4. ^ 「入"校"」、「卒業"者"」、「隊"附"」などの表現は実際の当校在籍者が編集した『陸軍航空士官学校』の表記にしたがった。
  5. ^ 士官候補生を生徒と呼び、それ以外の少尉候補者や特別志願将校は学生と呼んだ。満洲国軍官候補生は士官候補生と同じ扱いのため生徒である。
  6. ^ 52期は50名(うち操縦30)、53期は201名(うち操縦88)、54期は183名(うち操縦85)、55期は176名(うち操縦119)、56期は120名(うち操縦90)、57期は400名(うち操縦297)が座間の陸軍士官学校卒業後に航空へ転科した。
  7. ^ 一例として士官候補生57期は予科を卒業した後、予定通り航空兵科士官候補生としてただちに航空士官学校へ入学し、そのまま卒業した者(イ)と、航空兵科以外の候補生として座間の陸軍士官学校で教育を約半年間受けた後に120名が航空に転科して航空士官学校へ編入、あらためて1年余の航空兵科教育を受け豊岡で卒業した者(ロ)、さらに座間の陸軍士官学校で航空兵科以外の教育を卒業まで受け、卒業直後に400名(うち297名は96期召集尉官操縦学生として豊岡の航空士官学校へ再入校、操縦教育を受けた)が航空へ転科した者(ハ)の3通りの航空兵科将校が存在する。イとロは陸軍航空士官学校卒業者であるが、ハは陸軍士官学校卒の航空兵科将校というあつかいになる。
  8. ^ 「(前略)但シ航空兵科将校ト為スベキ生徒ニアリテハ所定ノ隊附勤務ニ代ヘソノ期間ヲ修学期間ニ合シ陸軍士官学校分校ニ於テ修学セシムルモノトス(後略)」[1]
  9. ^ 57期は短期教育であったため3月下旬すでに卒業し、58期はまだ前期教育中で飛行場はあまり使用する必要がなかった。
  10. ^ 陸軍航空士官学校分校設立に先立ち、同地にあった所沢陸軍飛行学校が廃止となった。
  11. ^ 必要最低限の技術を習得し、資格を与えられるまでは「練習」と表記し「訓練」と区別する。
  12. ^ 太平洋戦線で22機を撃墜し「ジャングルエース」の異名をとり、第49戦闘群英語版の指揮官として25歳で最年少の大佐となった。1945年10月7日に沖縄出張の帰途東京湾上空でB-25搭乗中、悪天候のため事故殉職したときには第5空軍司令部の幕僚であった。
  13. ^ 航空自衛隊管理運用部分以外は米空軍ジョンソン基地として存続された。
  14. ^ 戦死者、戦病死者、殉職者を合わせる。以下同じ。
  15. ^ 主に健康上の理由により十分な教育が受けられない者は卒業を延期したり、場合によっては退校を余儀なくされた。
  16. ^ 初めて航空兵科士官候補生として陸軍士官学校へ入校した40期生は24名、以降47期まで航空兵科の士官候補生は30名未満、48期は36名、49期は43名、いずれの期も航空兵科は士官候補生総数の10%弱であったが、大東亜戦争の推移とともに航空兵科の比率が高まり、58期ではついに同期士官候補生総数の過半数を航空兵科が占めることとなり生徒数規模において座間を上まわった。
  17. ^ 当初より59期生は1945年(昭和20年)9月の卒業を予定しており、終戦時にはほぼ所定の教育を終了していた。

出典

  1. ^ 勅令第566号
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 陸軍航空士官学校史刊行会編, 航士校年表図 『陸軍航空士官学校』1996年
  3. ^ a b 陸軍航空士官学校史刊行会編, 在校生徒『陸軍航空士官学校』1996年


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