防己尾城 概要

防己尾城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/09 23:33 UTC 版)

概要

1579年天正7年)、因幡国の有力国人・吉岡定勝によって築かれ[1]1581年(天正9年)の羽柴秀吉による因幡侵攻に伴い落城、廃城となった。なお、防己尾(つづらお)という城名は江戸時代ごろに定着したものであり、天正年間には亀山城吉岡城と呼ばれた。

歴史

羽柴秀吉軍との間で激しい戦いが行われた三の丸跡

もともと吉岡氏は六反田の丸山城を本拠としていたが、1573年(天正元年)頃に箕上山城(標高297m)に本拠を移した。しかし箕上山城はあまりに峻険かつ深山だったため、前記1579年(天正7年)に防己尾城を築いて新たな本拠とした。

1581年の羽柴秀吉の鳥取城攻撃に際し、吉岡一族は防己尾城に拠って羽柴秀吉に対抗した。伝承に拠れば、「湖畔の小城一つと見くびった秀吉は3度にわたって手勢を差し向けるが、吉岡は変幻自在の戦法で秀吉の大軍を3度とも撃破した。特に2度目の防己尾城攻撃の際は、秀吉自慢の千成瓢箪馬印も打ち捨てられるほどの大勝だった。」と伝わるが、そもそも史実の羽柴秀吉は「千成瓢箪の馬印」を使用していないなど、戦闘の経緯を含めて後世の巷談でしかない。

言い伝えによれば、力攻めは不利と悟った秀吉は兵糧攻めに切り替えたため、糧食尽きた吉岡一族は降伏して城を出て、毛利氏の本拠である安芸国など諸国を放浪の末、因幡国に戻って帰農したと伝えられている。

構造

  • 湖山池に半島状に突き出した高さ38.8メートルの小丘に築城され、それぞれ独立した3つの丘を本丸・二の丸・三の丸とし、その周囲に階段状に数段の削平地=砦が設けられていた。3つの小丘は、堀切竪堀切岸で厳重に防御され、小さいながらも攻めるに難い城だったことがうかがえる。
  • 本丸と三の丸に挟まれ湖山池に面した東方平地に、小規模ながら町屋が形成されていたと考えられている。
  • 現在は城地は公園となっているが、土塁、曲輪跡、竪堀跡、切岸が明瞭に残っている。

  1. ^ 「吉岡将監」鳥取市公式HP


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