谷亮子 競技歴

谷亮子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 15:08 UTC 版)

競技歴

生い立ち

城浜小学校2年生の時に4歳年上の兄に影響されて東福岡柔道教室で柔道を始めた。それからわずか数か月後には櫛田神社の奉納試合で5人抜きを演じたが、その際には男の子を投げ飛ばして、けがを負わせたことがある[26][27]。この当時は柔道以外にピアノ書道乗馬も習っていたが、ある時ピアノの教師に「ピアノには五輪はなかと」と言われたことがきっかけで柔道に専念するようになった[28]

小学校4年の時には九州少年柔道大会の団体戦で優勝して最優秀選手に選ばれた[26]。 小学校5年の時には全国少年柔道大会の団体戦に東福岡柔道教室の先鋒で出場して準決勝で敗れたものの、3位入賞を果たした[29]。小学校6年の時には団体戦の全日本少年少女武道錬成大会で優勝した[26]。 なお、小学校の卒業文集では「私は柔道が好きな女三四郎でーす」と自己紹介していた。また、レベッカジョージ・マイケルのファンでもあった[26]

中学時代

城香中学2年の時に体重別九州予選に出場すると、準決勝で柳川高校3年の衛藤裕美子と対戦した。ポイントでリードしながら終了20秒前に送襟絞をきめられて参ったをしてしまい、本選への出場はならなかった。この際に道場の師範だった稲田明に、「試合を放棄するようなことはするな。あと20秒辛抱すれば勝ったのに、今までやってきたことが台なしではないか。やり直しだ」と叱られて顔を叩かれた。道場では度々竹刀で叩かれていたものの、顔を叩かれたのはこの時が初めてだったという[26][30]。なおこの後、全日本女子代表チームの強化合宿に参加したものの、体が小さく白帯だったため、最初は強化選手の誰からも相手にされなかった。そのうち、48 kg級トップレベルの1人である埼玉大学1年の鈴木若葉が声を掛けると、組むや否や豪快な背負投で投げ飛ばして、周囲の強化選手やコーチをざわつかせた[26]。またこの当時、同じ福岡県の篠栗町道場に出稽古に赴いた際には男子中学生を次から次へと投げ飛ばして、道場破りの様相を呈することとなった。投げられた1人である中学3年の男子生徒は、自分より30 kg近く軽い小柄な田村に投げられた衝撃から柔道をやめてしまった[26]

中学3年の時には6月の都道府県対抗全日本女子柔道大会に福岡県チームの一員として出場すると、予選リーグで2戦2勝を収めるがチームは敗れた[26]。 また、体重別九州予選で優勝して7月には本選に進むも、準決勝でこの階級の第一人者である筑波大学1年の江崎史子横四方固で一本負けしたが、3位に入賞した[26]。 8月には全日本代表チームのフランス遠征メンバーに選ばれて、現地での練習試合では5戦全勝した[26]。 10月には強化選手選考会に出場して、決勝で京都産業大学3年の坪井由香里と対戦すると、小内刈で効果を先取されるが、すぐに同じ小内刈で効果を取り返すと、その後は攻め込んで判定勝ちを収めて福岡国際の代表に選ばれた[31]

12月の福岡国際には大会が始まった1983年以来、東福岡柔道教室の一員として毎年集団演武に参加していたが、今回は初めて選手として出場することになった[26]。道場の妹分である3歳年下の当時小学校6年生だった日下部基栄が「負けたらメシ食わさんぞー」と檄を飛ばしながら応援団長を務めた。その初戦で中国の高宇紅と対戦すると、大外落の技ありの他に有効2つも取って圧倒的にリードするが、終了間際に高の内股で審判団が協議になるほど一本に近い技ありを取られたものの、判定は変わらず優勢勝ちを収めることになった。準決勝では長年この階級の女王として君臨してきたイギリスのカレン・ブリッグス体落と内股で立て続けに技ありを取って僅か28秒の合技一本で破った。さらには、決勝でも前年の優勝者である中国の李愛月に背負投で技ありを取った後に内股すかしで一本勝ちして、この大会最年少の15歳での優勝を成し遂げ、衝撃的な国際大会デビューを飾った。その直後に開催された体重無差別の福岡県女子選手権では、4階級上の66 kg級の選手である福岡大学1年の多田尾優子を判定ながら破って優勝を飾った[26]。なお、この当時は正月以外、年中無休で柔道に取り組んでおり、平日は午後6時から9時半まで、週末は午後2時から6時まで稽古に充てていた。また、東海大第五高校中村行成の得意技である掬投が特に気に入っていた[32][33]。加えて、小学校の頃から引っ込み思案で思ったことをなかなか口に出せなかったが、福岡国際で優勝した際に一部マスコミから愛読していた漫画のYAWARA!の主人公に引っ掛けて「ヤワラちゃん」と呼ばれるようになってからは、自分の思っていることを躊躇わずに発言できるだけの強い気持ちが持てるようになったという[28]

高校時代

1991年4月には田村が柔道を始めた時から面倒を見てきた鎌田智博が柔道部監督を務める福岡工大附属高校へ進学した。そこでは軽量級の元世界チャンピオンである柔道部部長の園田義男と、1976年モントリオールオリンピック中量級金メダリストであるコーチの園田勇の園田兄弟からも指導を受けることになった[26]。1年の時には6月の体重別準決勝で筑波大学1年の永井和恵を掬投で破ると、決勝では同大会の6連覇を狙う江崎に対して後半に攻め込まれたものの、出足払で相手を崩したのが評価されてか、3-0の判定で優勝して前年の雪辱を果たすとともに、世界選手権代表に選ばれた[34]

7月にバルセロナで開催された世界選手権では、2回戦で世界ジュニアチャンピオンであるキューバのレグナ・ベルデシアに有効を取って優勢勝ちするなどして勝ち進むも、準決勝でブリッグスに得意の寝技に持ち込まれて上四方固で一本負けした。3位決定戦ではポーランドのマウゴジャータ・ロシュコフスカ大外刈で破り3位になった[35]

10月には今大会から新設された国体少年女子の部に柳川高校2年の佐野奈津子、3年の国吉真子とともに福岡県チームの一員として参加すると、決勝で一本勝ちするなどしてチームの優勝に貢献した[26]

11月には大阪で開催されたアジア選手権に出場するも、初戦で中国の湯礼紅に背負投と大外刈で有効2つを取られて敗れたのみならず、右足の靱帯まで損傷した。周囲から敗者復活戦は棄権を勧められたが、園田兄弟から「足を引きずってでも戦え」と檄を飛ばされたために試合に出て勝ち続けると、3位決定戦では韓国の尹榮娥に3-0で判定勝ちして3位に入賞した[26]

ケガを押して出場した12月の福岡国際では決勝で江崎との対戦になり、両者注意の後、江崎に場外際に追い込まれ動きが止まったため赤畳5秒ルールの警告が与えられるかとも思われたが流されて、終了間際に内股で効果を取って辛うじて勝利を収めた。なお、この後の首脳陣による特別座談会では女子強化部長の中村良三が、武蔵大学教員の山口香の話として、江崎も今大会の決勝で肩を負傷したのに、なぜみんな田村のケガばかり気遣うのか疑問を投げかけていた点に言及した。続けて中村と強化副部長の柳沢久が、こんなことをしていたら作新学院高校時代の江川卓のように浮いてしまい、他の選手が田村から離れていってしまうと憂慮の念を示した[36]

1992年2月にはドイツ国際に出場すると、決勝で地元ドイツのドルテ・ダンマンを内股で破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝した[26]

2年の時には5月の体重別決勝で埼玉大学1年の長井淳子と対戦すると、先に小内刈で有効を取られるも、その後すぐに掬投で有効を取り返して、3-0の判定で優勢勝ちして大会2連覇を達成するとともに、バルセロナオリンピック代表に選ばれた[37]

バルセロナオリンピック出場

8月のバルセロナオリンピックでは初戦でキューバのアマリリス・サボンと対戦すると、効果を先取されるも大内刈や小内刈などで有効2つと効果1つを取り返して初戦を突破した。続く2回戦ではブラジルのアンドレア・ロドリゲスから有効2つを奪った後に崩上四方固で破ると、準々決勝では李愛月に内股で一本勝ちした。準決勝では前年の世界選手権で敗れたブリッグスを素早い動きで翻弄して攻め立てると、ブリッグスはその動きについて来れずに次々と反則ポイントが与えられたのみならず、右肩まで脱臼した。その後も容赦なく攻め続けると終盤にはブリッグスを反則負けに追いやった。

決勝では世界チャンピオンであるフランスのセシル・ノバックと対戦すると、開始30秒過ぎに素早い動きで相手を前方に引き落とすが、その際に両足を掴まれて双手刈で効果を取られた。その後、内股や小内刈で盛んに攻め込むもののポイントは取れず、3分過ぎに支え釣り込み足を踵返で切り返されて2つ目の効果を取られると、反撃及ばず敗れて銀メダルに終わった。但し、オリンピックの柔道競技においては16歳331日の史上最年少メダリストになった。ノバックはフランス女子ナショナルチームの監督である村上清に田村の弱点は技を仕掛けて戻る際に重心がふらつくところだとの指摘を受け、この試合でもそのアドバイスに従ってポイントを稼いだ。

試合後にノバックは、「田村は小さすぎる、勝てるわけがない。田村は16歳と若くきゃしゃだ。全く怖くなく、初めてだったが勝つ自信があった」と挑発的なコメントを残した。一方で敗れた田村は、「ノバックは(2階級上の)56 kg級の選手のように懐が深く力が強かった。あともう少しがんばったら金メダルがもらえたのに」と悔しさを噛み締めて語った。なお、ブリッグスからは試合後に「これからはあなたの時代」との言葉を贈られた[26][38][39]

アトランタオリンピックまで

オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で昨年のアジア選手権で敗れた湯を払腰で破って雪辱すると、決勝でもフランスのシルビー・メルーを背負落一本で下してオール一本勝ちで大会3連覇を達成した[40]

1993年の2月にはフランス国際に出場して、3回戦でフランスのフレデリク・ジョシネに効果で勝った以外は、決勝でサボンを崩上四方固で破ったのを始め全て一本勝ちして優勝を果たした[26]

3月には全国高校選手権に出場して、準決勝までオール一本勝ちで勝ち上がり、決勝では土浦日大高校1年の磯崎祐子に3-0の判定勝ちで優勝を飾った[26]

3年の時には5月に上海で開催された東アジア競技大会の決勝で、地元の湯から背負投で有効を取って優勝を果たした[26]

7月の体重別では決勝で長井を3-0の判定で破り世界選手権代表に選出された[26]

7月には団体戦の金鷲旗にも福岡工大附属高校の一員で参加して、1 - 2階級上の選手を相手に3戦全勝した[26]

10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では、準決勝でイタリアのジョバンナ・トルトラを出足払で破ると、決勝でも李愛月を盛んに攻め込んでポイントこそ取れなかったものの3-0の判定で破り、史上最年少の18歳1か月で世界チャンピオンになった。この際に、「世界選手権とか世界的な大会で優勝がなかったから最高にうれしい」と語った[26][41]

続く国体少年女子の部では、柳川高校2年の阿武教子三池高校2年の杉野美紀子とともに福岡県チームの一員で参加して、オール一本勝ちを成し遂げてチームの優勝に貢献した[26]

12月の福岡国際では決勝でロシアのタチアナ・クフシノワを合技で破り優勝を果たした[26]

1994年になると、この年から女子柔道部を新設することになった帝京大学文学部国文学科へ進学した。監督は東福岡柔道教室時代の恩師だった稲田が務めることになった。入学の際には、「先生方から色気づいたら弱くなると言われているんで柔道一筋にやりたい」と決意を語った[26]

5月の体重別決勝では、ノバックを育てた村上が帰国後に新たな打倒田村の秘密兵器として養成してきたミキハウス衛藤由佳を大外刈と袖釣込腰の合技で破って優勝し、アジア大会代表に選ばれた[40]

10月に広島で開催されたアジア大会では、決勝で李愛月を3-0の判定で破って優勝を果たした[42]

11月には強化選手選考会に出場して、決勝で長井から効果を取って優勝を果たした[26]

12月の福岡国際では決勝で長井から有効を2つ取って優勝して、バルセロナで敗れてから続いてきた連勝記録を50に伸ばした[40]

1995年5月の体重別では、決勝で長井から大外刈で有効を取り優勝して世界選手権代表に選ばれた[40]

8月に地元の福岡で開催されたユニバーシアードでは、決勝でサボンを払腰で破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝を果たした[26]

10月に幕張で開催された世界選手権では、3回戦でサボンから小内巻込で技あり、準々決勝でもジョシネから効果を取って勝つと、準決勝では映画ホーム・アローンに出演したこともある女優で、なおかつ前年の世界ジュニアチャンピオンでもあるアメリカのヒラリー・ウルフを開始早々の体落で破り、決勝では前回大会に続く対戦となった李愛月に対して、先にポイントを取りながらなお攻め続け、ラスト1秒に双手刈で一本を取って優勝して、大会2連覇を達成した[43]

12月の福岡国際でも決勝でサボンを縦四方固で破るなどオール一本勝ちで優勝を果たした[40]

1996年3月の体重別では決勝で長井から効果を取って優勝して、アトランタオリンピック代表に選ばれた[40]

7月のアトランタオリンピックでは、サボンが強敵になってくるものの田村のナンバー1の座は揺るがず、今度こそ金メダルと期待された[44]。 その初戦ではベラルーシのタチアナ・モスクビナを体落、2回戦ではホンジュラスのドラ・マクドナルドを背負投、3回戦ではトルトラを袖釣込腰の技ありでそれぞれ破ると、準決勝では最大のライバルと目されたサボンを背負投で破った。そして決勝ではワイルドカードで出場してきた全く未知の相手である北朝鮮のケー・スンヒと対戦することになった。その決勝ではケーが暗黙のルール[45]を破って柔道衣を左前に着ていたために思うように柔道衣を掴めず攻めあぐねた。また、ケーの力強い組み手の前にいつものように素早い動きで相手を撹乱するところまで持っていけず膠着状態となった。そして試合終盤には払腰を小外刈で切り返されて効果を取られると、その直後の背負投を偽装攻撃と見なされて指導まで与えられて敗れ、前回大会に続いて銀メダルにとどまった。この敗戦によって、前回のバルセロナオリンピック決勝で敗れてから続いてきた連勝記録も84でストップした[46][47]。なお、アトランタで使用された畳は投げられて勢いがついた場合は1m近くも滑る、素人が製造したかの如き畳と酷評されるような代物であったという。そのため、体の小さい田村は相手にコントロールされた場合、思い切った技を仕掛けることができなかったのが敗因の一つだったと全日本女子代表チーム監督の野瀬清喜は述べている[48]。本人は試合直後のインタビューで次のように語った。「なぜか決勝戦だけ、気合が入らなかった。集中力がなかった」「みんなが応援してくれるから絶対に勝たなきゃいけない。それで硬さがあったのかもしれない。でも人間ですよね。私も人間だなと思いました。人間でよかった」[49]。何れにせよ、今回の敗戦は田村にとってあまりにも衝撃的で、小学校2年の時に柔道を始めて以来培ってきた喜びや勇気、自信が根本的に打ち砕かれた気分に陥り、次は2000年シドニーオリンピックなどと軽々しく口にはできない状態が暫く続いた。そんな時、親交のあった1988年ソウルオリンピック公開競技)61 kg級銅メダリストの持田典子から渡された手紙にあった「神様は乗り越えられない人には試練を与えない」との文面に感銘を受けた。「柔道をやれるときは限られる。ここでやめたら後で悔やむだろう。自分は試練を乗り越えられる。わずかな可能性を信じて努力してみよう。」と思い至り、立ち直るきっかけをつかめた。 さらにその後のインタビューでは次のように述べた。「アトランタでは準決勝でサボンに一本勝ちした時、これでもう優勝は決まったようなものだと自信満々になったのは間違いだった。これを教訓にそれからは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになった」「(オリンピックで)金メダルを取るまで私はあきらめない。自分が完璧になったとき、最高の喜びが待っていると思います」[26][50][51][52]

シドニーオリンピックまで

オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で李愛月に2-1の判定で辛うじて勝利すると、決勝ではサボンに注意で勝って優勝した[40]

1997年1月には大阪で初開催された女子の国別団体世界一を決めるワールドカップ団体戦 に、日本チームの一員として準決勝のキューバ戦のみに出場して、そこでサボンを背負投の有効で下して勝利したが、チームは敗れて3位になった[26]

5月の体重別では長井から燕返で有効を取って勝ち、世界選手権代表に選出された[40]

10月にパリで開催された世界選手権では、準決勝で北朝鮮のペ・ドンスクを出足払と背負投の合技で下すと、決勝でもサボンから内股で有効を取って破り大会3連覇を達成した[53]

12月の福岡国際では決勝で長井を指導で下して優勝した[40]

1998年には帝京大学を卒業すると、トヨタ自動車に入社した。また、日体大の大学院にも進学することになった。当初は就職せず帝京大学の大学院に進学する予定もあったが、そうしなかった点については、「自分の人生の中で社会人の経験をしておく必要がある。人生においていろいろなことを吸収したい」からだと説明した[26]

5月の体重別では決勝で住友海上真壁友枝から体落で有効を取って優勝した[40]

9月にミンスクで開催されたワールドカップ団体戦では、準決勝でフランスチームのジョシネと対戦して、相手の大内刈を返して有効を取り勝利したが、チームは敗れて最終的に5位にとどまった[40]

11月の全国女子体重別では決勝で長井から警告を取って優勝した[40]

アジア大会が12月にあったために1か月先延ばしになって開催された1999年1月の福岡国際決勝では、アジア大会で優勝して勢いづく真壁を小外掛一本で破り優勝した[40]

5月の体重別では決勝で長井を3-0の判定で下して世界選手権代表に選出された[40]

10月にバーミンガムで開催された世界選手権では、準決勝で韓国の朴成子を注意で破ると、決勝ではサボンを3-0の判定で下して大会4連覇を果たした[54]

12月の福岡国際では決勝でサボンを3-0の判定で破り、今大会10連覇を達成した。この際に次のように語った。「90年代を制覇し続けられたことは本当にうれしい。勝つことは難しい。勝ち続けることはもっと難しい。しかし、今日の経験は、シドニーで必ず生きる。今まで経験してきたことを発揮するときがいよいよ来たんです。やるしかない。」[26]

2000年4月の体重別では決勝で東和大学4年の濱野千穂を注意で破り、52 kg級の山口香に続いて今大会での10連覇を達成して、シドニーオリンピック代表に選出された[40]

9月のシドニーオリンピックでは、「最高で金(メダル)、最低でも金(メダル)」という言葉と共に臨んだ。しかし、初戦では中国の趙順心と対戦するとペースを掴めずに終盤まで縺れ込み、旗判定になったら負けにされる可能性もあったものの、終了1秒前に内股返の有効で辛うじて勝利した。続く準々決勝ではウクライナのリウドミラ・ルシニコワに払腰で一本勝ちした。準決勝では北朝鮮のチャ・ヒョニャンを攻め立てるもポイントは取れず、両者注意を与えられるが3-0の判定で破った。そして決勝ではロシアのリュボフ・ブルレトワを開始38秒の内股一本で破り、自身初のオリンピック金メダルに嬉し涙を流した。また、初のオリンピック金メダル獲得を「ようやく初恋の人に出会えた」と表現した。さらにこの金メダルが評価されて、福岡県では初となる県民栄誉賞を受賞した。なおこの時点では、将来結婚したら専業主婦に納まるのが理想で、自分の子供には柔道をやらせたくないと語っていた(後に結婚して男児2名をもうけたが、両者には柔道でなくアイスホッケーに取り組ませている。また、参議院議員を一期務めた後は専業主婦になった)[26][55][56][57][58]

アテネオリンピックまで

12月の福岡国際では、決勝で濱野を警告で破り大会11連覇を達成した[40]

2001年4月の体重別では、決勝で濱野に総合勝ちして大会11連覇を達成するとともに世界選手権代表に選ばれた[40]

7月にミュンヘンで開催された世界選手権では、2週間前に右膝の内側側副靱帯を断裂しながらも敢えて参戦した。その準決勝ではイタリアのジュゼッピーナ・マクリを内股一本で破ると、決勝では北朝鮮のリ・キョンオクと際どい試合になったものの2-1の判定で下して、ケガを抱えながらも大会5連覇を達成した[59][60]。なお、12月の福岡国際は12連覇が懸かっていたものの、出場しなかった[40]

2002年4月の体重別では、初戦で土浦日大高校2年の福見友子に大内刈で効果を取られて敗れ、アトランタオリンピック決勝で敗れてから続いていた連勝記録が65でストップした。また、日本選手には1990年の体重別準決勝で江崎に敗れて以来12年ぶりに敗れ、これによって対日本選手の連勝は98、国内で開催された大会での連勝記録は121でストップすることとなった[61]。後にこの敗戦について、次のようにコメントした。「あの試合(4月)を振り返ってみると、柔道以外のこと、それは肖像権の問題ですが、それに頭が行ってしまい、あの時点で誰と対戦したとしても、いい結果は得られなかったと思います。ですから、敗戦というより自分の問題であって、あまり気にはしていないんです。」「あの敗戦よりももっと苦しくてひどい敗戦を、バルセロナ、アトランタで経験しています。だから、あの敗戦はそういうものとは違います」[62]

12月には2年ぶりに福岡国際に出場すると、準決勝では体重別で敗れた福見から効果を取って勝ち雪辱を果たすと、決勝でもミキハウスの北田佳世から小内巻込で有効を取り、この大会12度目の優勝を飾った。なお、福岡国際に出場したのは結果として今回が最後となった。田村が今大会で初優勝した時から常に実況を続けてきたRKB毎日放送アナウンサー隈部崇之は、田村は動きが速すぎるので一瞬たりとも目が離せず、他の選手を実況している場合と違い、選手の経歴やエピソードが書かれたメモを見る余裕さえ与えなかったと語っている[40]

2003年4月の体重別では準決勝で福見に小外刈で一本勝ちすると、決勝でも北田から背負投で有効を取って優勝を果たして、世界選手権代表に選ばれた[40]

9月に大阪で開催された世界選手権では準々決勝までの3試合を一本勝ち、準決勝でも中国の高峰から効果と指導を取っても攻め続け、ラスト1秒の背負投で一本勝ちすると、決勝ではジョシネに指導3で優勢勝ちして大会6連覇を達成した[63]

12月1日にはプロ野球オリックス・ブルーウェーブ所属の選手である谷佳知結婚した。20日には結婚披露宴を行い、日本テレビで生中継された[64]

2004年4月の体重別では、準決勝で藤村女子高校3年の山岸絵美を払腰一本で破ると、決勝でも北田から指導2を取って優勝を果たしてアテネオリンピック代表に選出された[40]

新たに「谷亮子」として臨んだ8月のアテネオリンピックでは、夫で同じくアテネオリンピックの野球競技日本代表選手である谷佳知をはじめ多くの人々による応援の中、試合に臨んだ。大会1か月前に左足首を傷めたことからケガの影響が懸念された。しかしながら、初戦で地元ギリシャのマリア・カラヤノブルーを合技、準々決勝でアルジェリアのソラヤ・ハダドを大外刈、準決勝でルーマニアのアリナ・ドゥミトルを合技で破るなどオール一本勝ちで決勝まで進んだ。決勝ではジョシネと対戦すると、開始早々に大外刈で効果、その直後には背負投で有効を奪った。さらに終了17秒前には大内刈で技ありを取って快勝して、オリンピック2大会連続の金メダルを獲得した。女子競技における日本選手のオリンピック連覇は初めてのことであった。試合後のインタビューでは「シドニーの時よりも何倍も嬉しいです」と涙を流して喜んだ。なお、今回の勝利で日本の女子の既婚選手では初めての金メダル獲得となった。また、夫の谷佳知も野球競技で銅メダルを獲得したことで、夫婦揃ってのメダリストともなった[65][66]。また、マスコミから「谷でも金」と賞賛された。

北京オリンピックまで

2005年4月の体重別では準決勝で福見に内股すかしで一本勝ちすると、決勝では北田に指導1で勝って世界選手権代表に選出されるが、GSに入って僅か27秒で守りに入っていたわけでもない北田のみに指導が与えられた点は疑問の残る裁定と報じる向きもあった[67]

しかし妊娠のため7連覇のかかっていた世界選手権は欠場した(北田が代役出場)[40]。 そして12月31日には長男を出産した[40]

復帰後初の大会である2007年4月の体重別では、準決勝で山岸から効果を取って勝つが、決勝では福見に出足払で有効を取られて敗れた。 しかし、ここ2年間ではこの大会しか出場していなかったにもかかわらず、過去の実績が考慮されて世界選手権代表に選出された[68]。 9月にリオデジャネイロで開催された世界選手権では序盤から強豪との対戦が相次ぐ厳しい組み合わせとなったが、3回戦でジョシネ、準々決勝で中国の呉樹根に対してGSまでもつれこむもののそれぞれ効果と指導1を取って下すと、準決勝ではドゥミトルから大外刈で技ありを取り、決勝でもキューバのヤネト・ベルモイ朽木倒にきたところを払腰で切り返して有効を取って優勢勝ちして、2大会ぶり7度目の優勝を飾った[69]

2008年には北京オリンピックへの出場の意欲を見せ、4月には選抜体重別に出場した。準決勝で山梨学院大学2年の浅見八瑠奈を指導1で破ったのち、決勝戦で山岸絵美相手に先に送足払で効果を取るものの、その後、巴投大外返で有効2つを取られて逆転負けを喫したが、これまでの実績からオリンピック代表に選ばれた[70][71][72][73]

夏季大会は5大会連続出場という、日本選手の最多連続記録を更新して[74]臨んだ8月の北京オリンピック柔道競技では柔道競技初日に登場した。その初戦ではアメリカのサヤカ・マツモトを大外刈の有効、2回戦では地元の呉樹根をGSに入ってから小外刈の技あり、準々決勝ではアルゼンチンのパウラ・パレトを指導1でそれぞれ破った。そして、準決勝ではドゥミトルと対戦することになった。互いに組み手を嫌って牽制し合うなどして指導2となり、膠着状態となった残り33秒にスペイン出身の主審が谷にだけ指導3を与えると、谷はあからさまに不服そうな表情を浮かべるが、反撃むなしく試合終了となってオリンピック3連覇はならなかった。外国選手に負けたのはアトランタオリンピックの決勝以来12年ぶり、ヨーロッパの選手に負けたのはバルセロナオリンピックの決勝以来16年ぶりのことだった。対外国選手の連勝記録も61でストップした。その後の3位決定戦ではロシアのリュドミラ・ボグダノワに内股で一本勝ちを収めて、オリンピック5大会連続のメダルとなる銅メダルを獲得した。なお準決勝に関して、全柔連強化委員長の吉村和郎や女子代表監督の日蔭暢年、女子代表コーチの園田隆二などからは、試合終盤になって谷にだけ指導3が与えられたことに疑問を呈する声が上がった。これに対して、オリンピックにおける日本女性初の審判員として今大会に参加した天野安喜子は次のような指摘を行った。「あの指導は勇気ある正しい判断であり、あの場面における指導は決して間違いではなかった。国内の大会なら終盤は流してGSにしてしまう傾向もあるが、インターナショナル審判員の場合は、審判員としての技量をこのような場面でこそ見られているという意識が働くので、例え残り10秒であっても反則がより妥当とみなせる側にきっちりと反則を与える。それがインターナショナル審判員としてのプライドでもある」[75][76][77]


  1. ^ a b 谷亮子氏、4段から6段に 女子では異例の飛び昇段”. 朝日新聞 (2018年1月15日). 2018年1月16日閲覧。
  2. ^ 夢と感動と愛を与えた日本柔道界の偉人5人”. 【SPAIA】スパイア (2016年7月23日). 2020年11月15日閲覧。
  3. ^ a b c d e 「柔道全日本強化選手名鑑 2010」近代柔道 ベースボールマガジン社、2010年4月号
  4. ^ 過去には橋本聖子が1995年に参院選に当選し、1996年アトランタオリンピック自転車競技に出場した例がある
  5. ^ “谷亮子の強化指定ランクを1段階格下げ”. 読売新聞. (2010年9月20日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/news/20100919-OYT1T00514.htm [リンク切れ]
  6. ^ “谷亮子議員、小沢氏同席で柔道現役引退を表明”. 読売新聞. (2010年10月15日). http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20101015-OYT1T00878.htm 2011年4月20日閲覧。 
  7. ^ “谷議員、柔道引退を表明 「スポーツ全体の振興目指す」”. 朝日新聞. (2010年10月15日). http://www.asahi.com/politics/update/1015/TKY201010150293.html [リンク切れ]
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