芳賀高孝 芳賀高孝の概要

芳賀高孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/29 15:20 UTC 版)

 
芳賀高孝
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 建高、孝高
戒名 建好宗徹(法名)
官位 刑部大輔
主君 宇都宮成綱忠綱興綱尚綱
氏族 芳賀氏
父母 父:袋方景秀、養父:芳賀高益
兄弟 高義、高孝、真岡貞清
政春、綱可
テンプレートを表示

出自

芳賀氏清原氏の後裔。下野国の有力武士団・清党の棟梁で益子氏の紀党と共に紀清両党と呼ばれる。

略歴

永正9年(1512年)、芳賀高勝宇都宮成綱によって謀殺されると宇都宮錯乱と呼ばれる宇都宮家中を二分する大きな内紛が起きる。成綱が内訌を鎮圧すると高孝は甥・芳賀高経と共に成綱によって助命され、宇都宮城に拘留された。その後、高孝は宇都宮成綱の三男(宇都宮正綱の末子の説もある)・興綱が芳賀氏を継ぐまでの短い間に芳賀氏を継いでおり、成綱を頂点とする政治的支配体制に取り込まれた。

永正13年(1516年)、宇都宮成綱が没すると、高経に協力して、宇都宮忠綱を宇都宮城から追放し、興綱を新たな主君に立てた。興綱の代に高孝は重臣として重用され、芳賀氏は宇都宮錯乱で失った権力を瞬く間に取り返した。その後は、高経、壬生綱房と共に宇都宮氏の筆頭宿老として、政治を横専した。天文元年(1532年)には、高経・綱房と共に興綱を強制的に隠居させ、宇都宮尚綱に家督を継承させている。当時、主君ですら逆らえないほどの権力を高孝らは持っていた。この体制は高経と尚綱が対立する頃まで続いた。天文10年(1541年),主君宇都宮尚綱に反旗を翻した芳賀高経が敗死すると,高孝もその係累と見做され,日頃から反目していた壬生氏・益子氏の手によって最期を遂げた。

永正7年(1510年)・天文5年(1536年)には海潮寺、永正9年・同10年(1513年)・同11年(1514年)・大永元年(1521年)・天文4年(1535年)には成高寺に寄進をしている[1][2][3][4][5][6][7]

出典

  • 『海潮寺文書』
  • 『寺社古状』(下野)

  1. ^ 『大日本史料』第9編之2 648頁
  2. ^ 『大日本史料』第9編之4 214頁
  3. ^ 『大日本史料』第9編之4 651頁
  4. ^ 『大日本史料』第9編之5 414頁
  5. ^ 『大日本史料』第9編之13 122頁
  6. ^ 『史料綜覧』第9編之909 731頁
  7. ^ 『史料綜覧』第9編之909 768頁


「芳賀高孝」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「芳賀高孝」の関連用語

芳賀高孝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



芳賀高孝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの芳賀高孝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS