織田氏 豊臣政権下 - 江戸時代

織田氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/22 05:21 UTC 版)

豊臣政権下 - 江戸時代

一般的には本能寺の変の後、清洲会議での決定で信忠の嫡男・秀信(三法師)が織田宗家(織田弾正忠家の宗家)を継ぎ、三法師擁立の功績から羽柴秀吉が台頭したとされている(『川角太閤記』)が、一連の逸話を疑問視して信長・信忠に何かがあれば三法師が織田宗家を継ぐことは信長生前から決められており、信長・信忠の死によって当主になった三法師が避難・滞在している清洲城に織田氏の一族・重臣らが集まって今後のことを協議したのが清洲会議であるとする説もある。つまり、清洲会議は前者に従えば「三法師を後継者と決めた会議」、後者に従えば「(形式上)後継者である三法師が招集した会議」ということになる[8]

しかし、その後元服して秀信と名乗った三法師は関ヶ原の戦いで敗れて改易されて配流の後に断絶したとされ、織田信長の血筋を引き継いで明治まで続いた系統は、主として次男信雄・七男信高・九男信貞の子孫であった。

信忠(信長嫡男)の末裔

織田宗家の当主となった三法師は当初は信長の三男信孝の庇護下に置かれて岐阜城にいた。ところが、清洲会議後に羽柴秀吉と柴田勝家が対立を深め、信孝が勝家と結ぶと、反主流派になった羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興と図って信長の次男信雄を名代として一時的に織田宗家の家督を継ぐことを認めることで三法師を擁する勝家・信孝に対抗した[9]

三法師は元服して秀信と称したが、賤ヶ岳の戦い後に信孝が滅亡し、小牧・長久手の戦い後に信雄が降伏した後も、実権を握った秀吉はそのまま信雄を織田宗家の当主として扱い、秀信は秀吉の庇護下のまま各地を転々とさせられ、信雄が失脚して嫡男の秀雄が後を継いだ際も秀信ではなく秀雄が織田宗家の当主とされていたと考えられる[10]

その後、秀吉から祖父・織田信長のかつての居城であった岐阜城13万3千石を与えられ、大名に取り立てられた。岐阜領は信長の四男である羽柴秀勝(於次)の名跡を継いだ羽柴秀勝(小吉)の旧領であるために秀信を秀勝(於次)の後継者と考えることもでき、秀吉が一旦織田宗家の家督を信雄父子に与えてしまったために改めて「信長ー(信忠)ー秀勝(於次)ー秀信」という織田宗家の家督の再構成を図られたとするとする説もある[11]。また、秀吉の旧主でもあったため貴人として遇され、官位は中納言まで昇進し岐阜中納言と呼ばれ、豊臣政権を構成する有力な大名の一人となった。

しかし、秀信は関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったために改易され、身柄は高野山へ送られた。そして、秀信の死をもって織田信長の嫡流の断絶ということになった。このことから織田家嫡流は徳川家康により滅ぼされたともいえる。また、秀信の弟である秀則も改易後は京都に隠退して男子を残さなかったとされている。

なお、『江源武鑑』(一般的には偽書とされる)では秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に氏郷が生まれたという。また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していたことになる。『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜では秀信に子女はいなかったとしている。

信雄(信長次男)の末裔

信雄は小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んで秀吉と戦うものの講和、伊賀国10万石を召し上げられ服属するにいたった。小田原征伐の後に国替え(従来の尾張・北伊勢5郡(桑名・員弁・朝明・三重・河曲)98万石[12]から家康の旧領・三遠駿と甲信(上杉領の北信を除く)119万石[13]への転封)をめぐって秀吉と対立し、改易となった。ほどなく許されて、御伽衆として秀吉・秀頼父子に仕えた。

長男・秀雄は父とは別に越前大野5万石を与えられていた。所領は、さほど大きくなかったものの官職は参議公卿・上級の公家)に叙され大野宰相と称され他の大大名と位の上では並んでいた。豊臣政権内では従弟の織田秀信とともに秀吉の旧主家として優遇され席次も上位に列したが関ヶ原で西軍に属し改易となった(なお、前述のように信雄・秀雄父子が秀吉から一旦は織田宗家の家督を認められていた可能性が高い)。

次男・重雄、三男・高雄は早世した。

信雄自身も関ヶ原で西軍に与したため、いったん所領の1万8千石を没収された。大坂冬の陣の直前に大坂城から退去。豊臣家滅亡後には、大和国宇陀郡および上野国甘楽郡などで5万石余を与えられ、大名に復帰した。

織田信雄の子孫は、四男・信良の系統が上野小幡藩、後に出羽高畠藩天童藩の2万石の大名となった。

また、五男・高長の系統が大和宇陀松山藩3万1千石(のち2万8千石)、後に丹波柏原藩2万石の大名となった。信良の子・信昌の家臣団は、信昌の後見人という立場の高長が自ら宇陀松山を領有することに反対し、「宇陀も織田信良家(小幡藩)の所領である」と主張したが、幕府は高長の相続を認めた。

宇陀松山藩主・織田高長の三男・長政は3,000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。明治期から昭和期にかけて活躍した芸術家の織田一磨は直系の子孫である。さらに、長政の次男・信清は300石を分け与えられて分家し、旗本になった。

信良系・高長系の両織田家ともに信長の末裔ということで、小藩でありながら幕府から準国主(国持並)[注釈 1]の優遇を受けた。しかし、江戸時代中期に、それぞれ明和事件宇陀崩れにより、陣屋(無城)大名に降格された。高長系織田氏は、家格引き下げだけでなく、さらに2万石へ減封となった。

柏原藩織田家(高長系)[注釈 2]は以後も騒動や不祥事が続き、信旧信憑信守信古の四代にわたり藩主の地位をめぐるお家騒動(「秘命騒動」および「保野騒動」)が起きている。信貞の代で信長の男系は絶え、細川氏黒田氏などから養子が入る。また信民は、拝領した江戸屋敷に町人を住まわせて金品を受領していたのが発覚、下屋敷を没収される。

天童藩織田家(信良系)は、財政再建に成功した隣藩・上杉家の助言を得て、米沢藩から淡水魚の提供と工匠の派遣、豪商からの資金提供[注釈 3]、などを受け、稚魚の養殖や将棋駒の製造、浮世絵の販売[注釈 4]、紅花の専売を始める[14]。手彫りの将棋駒や「左馬」の工芸品はのちに天童の特産品となる。

その他、天童藩・柏原藩の両織田家は庶子には津田姓などを与え、家臣として分家させた。具体的には、宇陀松山藩主・織田高長の五男津田頼房の系統や高畠藩主・織田信浮の十男・津田長郷の系統などをあげられる。

その他の信長の子の末裔

信長の三男・信孝は、秀吉との抗争に破れたのち天正11年(1583年)に自害。四男・羽柴秀勝(於次丸)は、天正13年(1585年)に病死。五男・信房(勝長)は、本能寺の変では長兄の信忠と共におり、二条新御所で戦死した。信房の長男・勝良前田利長に仕え、600石を知行した。

信長の六男・信秀から十一男・長次までの息子たちは秀吉の家臣となった。しかし関ヶ原の合戦で、息子たちの多くは西軍に属して没落した。

六男・信秀は、父信長より美濃の揖斐に所領を与えられた。秀吉が権力を掌握すると、近江国栗太郡[注釈 5]に移された。関ヶ原以前に死去。長男の重治は理由不明ながら父の遺領を継げず、次男・虎法師も賊徒に殺害されてしまい、家は絶家となった。

七男・信高の系統は徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2,000石余りを領有し、9代・信真で維新を迎えている。

八男・信吉は、秀吉から近江国神崎郡および犬上郡で2千石[注釈 6]を与えられる。関ヶ原では西軍の大谷吉継に属し、主将吉継はじめ大半の同陣諸将が討ち死にしたものの、信吉は戦場を離脱した。戦後に改易となり、長男・良甫の子である吉雄は京極高国の家臣になった。

九男・信貞も秀吉から近江国の神崎郡、蒲生郡内に1,000石の所領を与えられたが関ヶ原後に改易。長男信次は病気がちであったが、その子(信貞の孫)である貞幹は、尾張藩主・徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。また、貞幹の次男・長居は分家し、同じく尾張藩に仕えた。

信貞の次男・織田貞置は、寛永元年(1624年)、父に代わって再び1,000石余が与えられ旗本(のちに高家)となった[注釈 7]。後に分知により700石余りに減った。

貞置の三男・貞則、四男・貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。静岡藩主・徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。

貞置の孫・津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位を退き、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。その子孫である織田瑟瑟(津田貞秀の長女・政江)は江戸時代後期の画家として知られる。

十男・信好も秀吉の家臣になり、のちに茶人となったが慶長14年(1609年)に病死。十一男・長次は、関ヶ原では兄・信吉と同じく西軍の大谷吉継に属し、戦場から脱出できず戦死した。ほかに信忠の上に、庶長子信正がいたという説があるが、実在したかまた信長の実子か不明である[注釈 8]

信長の弟の末裔

織田信勝
織田信長の弟・信行(信勝)の子孫は、2家が旗本になっている。信行の孫・昌澄藤堂高虎豊臣秀頼に仕え、豊臣家の滅亡後は近江国内に2,000石を与えられて、旗本に取り立てられた。その子・信高は三男・信英に500石を分け与え、旗本として分家させた。
織田信包
織田信長の弟・織田信包は、関ヶ原の戦いで西軍に属したものの、大名として存続を許された。丹波柏原藩[注釈 9]主となり、三男の信則が家督争いのすえに相続したが、孫・信勝のときに無嗣断絶した。ただし、改易に際して信包の四男・信当は幕府から3,000石を与えられて、旗本として召し抱えられた。
なお、信包の長男・信重は父とは別家として伊勢林藩1万石を領有する大名であったものの、父の死後に弟・信則と遺領である丹波柏原3万6千石の相続争いをおこして、改易となった。その子孫は肥後熊本藩細川家の家臣になった。
織田長益系(有楽流
織田信長の弟で有楽斎こと織田長益は、関ヶ原の合戦で東軍に属し、加増されて摂津味舌3万石の大名となった(味舌藩)。ただし、戦後は大坂城にあって豊臣秀頼の補佐にあたった。豊臣家の滅亡後、長益は隠居し、四男・長政と五男・尚長に各1万石を分け与えた。長政の子孫は大和戒重藩芝村藩の藩主、尚長の子孫は大和柳本藩の藩主となった。
また、関ヶ原の合戦後、織田長益の長男庶長子)・長孝美濃野村藩1万石の大名に取り立てられたものの、その子・長則のときに無嗣改易となった。ただし、長則の弟・長政の子孫は、加賀藩前田家の家臣になった。
なお、長益自身が領有した(支藩を分与後の)味舌藩1万石は、次男(嫡男)・頼長の子である織田長好に継がせる予定であったが、届出を出さないうちに長益が死去してしまったため断絶した。
長好は、有楽流宗家の再興を画策したが、父・頼長が「猪熊事件」への関与や「大坂の陣」での牢人衆との指揮権をめぐる紛争のあげく大坂城退去など、印象が悪かった点もあり実現しなかった。
長益の子で残る三男・俊長だけは父と不和であり、強制的に出家させられたり、勝手に還俗して叱責されたりで長益から所領の分与が得られなかった。のちに肥前鹿島藩主の鍋島直朝に仕えたという[注釈 10]
柳本藩織田家(尚長系)は、宝永6年(1709年)、秀親朝廷からの使者の御馳走役と同僚への指南役を命じられるが[注釈 11]、同役への指導が厳しく[注釈 12]前田利昌の恨みを買い刺殺された。秀綿の代には、明和6年(1769年)1月には百姓が重税に反対して強訴を起こす。享和2年(1802年)12月にも百姓による年貢軽減を求める一揆が発生し、織田軍と百姓との間で乱闘による死傷者が多数出ている。さらに文政13年(1830年)には原因不明の火事により柳本屋敷が全焼する。幕末には信陽が無城から城主格に昇進した。維新の動乱期には、信成は再三にわたって上洛延期を申請し、様子見に徹した。
芝村藩織田家(長政系)は、輔宜の代に幕府領13000石を預けられる。長教の代には預かり地9万3430石を任されるようになった。自領と合わせ10万石を超え織田家としては、岐阜13万石で関ヶ原東軍主力を迎え撃った織田秀信以来の広大な統治領域である。ところが、年貢増徴に対して預かり地における百姓一揆が頻繁に発生し、遂には百姓たちが芝村藩を批判して織田家からの預かり地撤回を奉行所に要求するに至った(「芝村騒動」)。さらに寛政6年(1794年)に芝村藩の代官による不正が発覚し、全ての預かり地召し上げと藩主に差控の処罰を受けた。
藩内においても、明和5年(1768年)末には年貢減免を求める強訴が発生する。安政6年(1859年)には藩の借金は銀2693貫(金換算で5万両。五公五民の1万石大名では、年貢の10年分に相当)という莫大なものになったと言われている。幕末に長易は尊王攘夷派の天忠組追捕にあたったが、その後は中立的立場を取るようになり、戊辰戦争では官軍に参加した。
有楽流の織田氏は、信雄系のような特別な待遇(官位や江戸城での席次)は受けられなかったものの、信長以来の勤王の家柄ということや畿内の大名ということもあって、勅使の接待役や崇神天皇陵の補修工事など、勤王関係の役目を命じられている。柳本藩は幕末には城主格に昇格した。尚長系、長政系の両家とも、領内での一揆・強訴・暴動がかなり頻繁に起きている。なお、それぞれ藩主の庶子は渡会や溝口などといった別姓を称し、家臣になった。

注釈

  1. ^ 半国もしくは15万石前後の大名。丹羽・立花・榊原など。四品になると国主と同じ大広間に進む。
  2. ^ 柏原では、信包系(信勝のときに無嗣断絶した「前の織田」)と区別して「後の織田」とも呼ばれる。
  3. ^ 出羽の本間家は佐渡の元大名で、上杉氏転封の折に山形へ移り現在の酒田市本町に「新潟屋」の暖簾を掲げ商売を始めたという。
  4. ^ 名目は「献金をした者には江戸で人気の絵画を褒美に与える」と称したが、実質的な絵画の領内販売に近い。葛飾北斎は小林平八郎央通の曾孫と公言し、また、歌川広重は上杉家の畠山氏や織田家の吉田氏と交流があったとされる。
  5. ^ 石高は不明だが、数万石と思われる。
  6. ^ 『近江輿地志略』や『淡海温故録』によると2万石となっている。
  7. ^ 寛永元年当時、父信貞は浪人中であったが、貞置による再興とは別に、微禄で召し抱えられたという説もある。
  8. ^ 『系図纂要』や『地下家伝』以外には記されていない。江戸幕府の公的な系譜集『寛政重修諸家譜』にも記載されておらず、信長の子の「織田信正」なる人物は同時代の史料には一切登場しないため、実在については確証がない。
  9. ^ 柏原では、信雄系(幕末まで続く「後の織田」)と区別して「前の織田」とも呼ばれる。
  10. ^ 時系列でみて辻褄が合わない点があり、信憑性が低いという説もあるが、俊長の末裔家を称する肥前鹿島藩士の伝承が残っている。
  11. ^ 高家肝煎で上杉一族でもある畠山義寧は、赤穂事件に懲りて指南役の権限を御馳走役首座の秀親に委譲している。
  12. ^ 老中からの奉書を前田に見せない等の嫌がらせがあったという説もあり。
  13. ^ 旧柏原藩は現米9190石(表高2万0000石)、旧天童藩は現米7650石(表高1万8000石)、旧柳本藩は現米6600石(表高1万石)、旧芝村藩は現米5210石(表高1万石)でいずれも現米5万石未満の旧小藩に該当[18]
  14. ^ 孝一自身は、「織田の本家は天童」「うちの柏原藩は既に信長の血筋ではない(男系では交代寄合の大和平野氏)」と前置きをしたうえで、織田家の末裔として意見を述べている[27]
  15. ^ 達定は継いでいないとする説もある。
  16. ^ 広高以降の当主は大和守家出身とされる信安の代まで不明である。
  17. ^ 達勝の父は織田勝秀ともされ、出自については解っていない。
  18. ^ 信友の父は織田因幡守ともされ、出自については解っていない。
  19. ^ 父は織田敏定または敏信とされ確定されていない。
  20. ^ 父は織田敏定とも。
  21. ^ 傍流。『系図纂要』にあるのみで、公式の系図には記されず。
  22. ^ 織田信栄四男
  23. ^ 織田信栄次男
  24. ^ 織田信栄五男
  25. ^ 細川行芬の三男
  26. ^ 血筋上の先祖は藤原北家勧修寺流(信恒は相馬氏からの養子で、相馬氏には江戸時代佐竹氏より養子が入っており、その佐竹氏には室町時代上杉氏より養子が入っているため)。
  27. ^ 血筋上の先祖は旗本平野氏である(織田信親の実父の山崎治正は平野氏よりの養子)。
  28. ^ 旗本・能勢頼寛の三男。
  29. ^ 旗本・織田信義の次男。
  30. ^ 天野康建の子
  31. ^ 遠山友寿の五男
  32. ^ 土岐頼左の子
  33. ^ 松平正淳次男

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)等『織田氏』 - コトバンク
  2. ^ 信長は平氏ではない! 祖先の墓発見2011年11月2日・産経新聞)
  3. ^ 劔神社と織田信長公 (日本語) - 劔神社
  4. ^ 橋本政宣「[おた]信長と[とよとみの]秀吉」(初出:『古文書研究』44・45号(1997年)/所収:橋本『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年)
  5. ^ 尾張守護代沿革小稿 河村昭一
  6. ^ 蔭涼軒日録・延徳3年11月19日条
  7. ^ 蔭涼軒日録・明応元年4月1日条
  8. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp32-46.
  9. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp71-73.
  10. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp90-91・99-101.
  11. ^ 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。ISBN 978-4-864-033015 pp100-102.
  12. ^ 『三重県の歴史』山川出版社、154頁。 
  13. ^ 太閤検地『当代記』、『大日本六十六国並二島絵図』、『日本賦税』、慶長3年(1598年)など。wikipedia「石高」記事も参照。
  14. ^ 「江戸三百藩・第60号」(ハーパー・コリンズ)、「“御家”立て直し」中江克己(青春出版社)など
  15. ^ 新田完三 1984, p. 327/403-404/862.
  16. ^ 新田完三 1984, p. 558.
  17. ^ a b 松田敬之 2015, p. 186/188.
  18. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 152.
  19. ^ 松田敬之 2015, p. 188.
  20. ^ 叙位最高位「正一位」 最後に贈られたのは1917年の織田信長 SAPIO2016年1月号
  21. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 253.
  22. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 304.
  23. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 331.
  24. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 408.
  25. ^ 新訂 政治家人名事典 明治~昭和『織田信恒』 - コトバンク
  26. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『織田信親』 - コトバンク
  27. ^ 「歴史と旅」「歴史読本」ほか
  28. ^ 橿原神宮で3年ぶり献茶祭 有楽流宗家「奉仕に感謝の気持ち」 奈良新聞 2022年5月6日
  29. ^ 除霊僧織田無道さん死す、68歳 9日未明…がんで サンスポ 2020年12月12日
  30. ^ 「信成君がメダルを取れなかった理由」織田家18代当主が分析 週刊朝日2015年9月7日


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