筑波久子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 07:01 UTC 版)
つくば ひさこ 筑波 久子 | |
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1960年 | |
本名 | 村田敏子 |
別名義 | チャコ・ヴァン・リューウェン |
生年月日 | 1939年11月6日(84歳) |
出生地 | 日本茨城県多賀郡大津町(現:北茨城市) |
国籍 | 日本→アメリカ合衆国 |
民族 | 日本人 |
職業 | 女優→プロデューサー |
ジャンル | 映画 |
主な作品 | |
『肉体の反抗』『春泥尼』『海底から来た女』『男の銘柄』『きさらぎ無双剣』『ピラニア』 |
アメリカ合衆国での別名はチャコ・ヴァン・リューウェン (Chako van Leeuwen)。
来歴・人物
茨城県多賀郡大津町(現・北茨城市大津町)五浦出身[4]。父・弥一郎、母・ハツの間に4人兄妹の末っ子として生まれる。 兄が2人、姉が1人いる。父は地元大手の旅館「五浦観光ホテル」と映画館を経営していた[4]。旅館の女将であった母親に溺愛され、母を憧れにして育つ。小・中学校は地元の大津小学校、常北中学校に通った[4]。中学時代は生徒会長を務め、トップ成績で慶應義塾女子高等学校に進学。
日活へ
慶應義塾女子高校では演劇部に所属、幼い頃に映画関係者にスカウトされたこともあり、両親に無断で日活のオーディションを受けトップ合格。娘の芸能界入りに、母親は賛成したが厳格な父親は猛反対。「駄目なら高校もやめる」としてついに父親が根負け、日活第3期ニューフェイスとして日活に入社。同期に二谷英明、小林旭がいる。
高校卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に進学するが、仕事が忙しくなり中退[6]。
1957年(昭和32年)、『肉体の反抗』が大ヒット、筑波の身体を張った演技が話題となり、筑波主演の「肉体シリーズ」が日活のドル箱となる。
新人賞を受賞し、仕事には恵まれたが、もともと体があまり丈夫でなく、一本撮り終えるごとに2週間の入院静養を余儀なくされ、初恋の男性の急逝もあって酒浸りとなる。また「肉体派女優」というレッテルを私生活にまで貼られ、心身疲労。ついに虫垂破裂で横浜のレストランで倒れ、緊急入院。きわどい瀬戸際だったといい、「救われた命だから生活を一から変えよう」と決意、これを機に渡米を考える。
米国へ
1963年(昭和38年)、人気絶頂の中、24歳で突如芸能界を引退、渡米してコロンビア大学に語学入学。
27歳の時に、遠距離恋愛を経て3歳年下のマシュー・ヴァン・リューエンと結婚。カリフォルニアに新居を構えるが、映画への思いは捨てられず、カリフォルニア大学の脚本コースに進む。
1967年(昭和42年)、長男キースを出産[7]。
1966年(昭和41年)及び1968年(昭和43年)に一時帰国[8]し、東映の映画などに出演。その後はアメリカに定住。
当時米国は泥沼化するベトナム戦争のさなかにあり、知人にも戦死者がいた。筑波は退廃的な生活を送る若者たちを題材にしたドキュメンタリー映画『若いアメリカ人たち』を撮る。
1973年(昭和48年)、第2作目作品『Tender Loving Care』が大物プロデューサーロジャー・コーマンに認められ、「チャコ・ヴァン・リューウェン」名義で全米配給。「彼女の作品を試写室で見てショックを受けた。キャリアの浅いチャコが作ったのが信じられなかった、それくらいクオリティの高い作品に仕上がっていた」(コーマン談)
1978年(昭和53年)、ジョー・ダンテを監督に抜擢して、1億円の低予算で製作したパニック映画『ピラニア』が、興収40億円の大ヒット。ハリウッドの大物プロデューサーとなった。
1981年(昭和56年)、『ピラニア』のリメイク作品『殺人魚フライングキラー』の監督に、当時無名で駆け出しの28歳、ジェームズ・キャメロンを抜擢。
1986年(昭和61年)、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起こり、感受性の強い一人息子のキースが世を儚んで拳銃自殺を図る。筑波は一時このショックから精神不安定となり、自殺を試みたこともあったという。
2013年(平成24年)春、息子の思いを支えに、東日本大震災からの復興、自殺防止、高齢者・若者の支援を目的とする団体「ファミリー・グループ」を日本で組織。政治活動も行っている[7]。
主な受賞歴
- ^ IMDb及び『週刊女性』1960年6月5日号、『週刊文春』1999年2月11日号等には「6月1日生まれ」とある。
- ^ “筑波久子 - 略歴・フィルモグラフィー”. KINENOTE(キネノート). 2017年1月18日閲覧。
- ^ KINENOTEでは1937年生まれになっている[2]。
- ^ a b c “筑波久子 - 人物情報・関連映画 - 映画DB”. 映画DB. 2022年2月12日閲覧。
- ^ 石橋春海『'60年代 蘇る昭和特撮ヒーロー』コスミック出版〈COSMIC MOOK〉、2013年12月5日、57頁。ISBN 978-4-7747-5853-4。
- ^ 『'60年代 蘇る昭和特撮ヒーロー』では、映画出演が大学側にばれて退学になったと記述している[5]。
- ^ a b 『女性自身』「シリーズ人間NO2139 “日活の看板女優”米ハリウッドの映画プロデューサーに転身して大成功 筑波久子さん(75)」(平成25年7月16日号、光文社)から
- ^ 『女性セブン』1966年12月1日号及び1968年10月23日号。
- ^ a b “筑波久子TV出演情報”. ORICON STYLE. 2016年10月31日閲覧。
- 1 筑波久子とは
- 2 筑波久子の概要
- 3 出演
- 4 ディスコグラフィー
固有名詞の分類
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