海柘榴市 (大和国) 海柘榴市 (大和国)の概要

海柘榴市 (大和国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/02 13:41 UTC 版)

付近は飛鳥時代から、初瀬川・寺川の舟運と東西に横大路初瀬街道伊勢街道、南北に上ツ道・阿部山田道・山辺の道などが交わる交通の要衝であった[3][1][2]。それゆえ海柘榴市は小墾田宮など都の玄関口でもあり、駅家も置かれたほか、刑を処する晒場や歌垣を行う場でもあった[1][2]

都が平安京遷都したのちも、長谷寺参詣の宿場として繁栄した[2]。宿場としての海柘榴市は『枕草子』や平安貴族の日記にも記され、『源氏物語』の舞台にもなった[1]

所在地と八十の衢

海柘榴市ならびに飛鳥時代の主要施設の位置関係

海柘榴市の所在地は、現在の初瀬川右岸(北側)にある桜井市金屋付近に比定されている。金屋には海石榴市観音堂があり、本尊の観音石仏2体はいずれも元亀年間の銘がある[2]。だだしこの所在地については異論もあり、とくに平安時代以降に金屋付近に移動したとする説が少なくない[1]。その理由について渡里恒信(2008年)は「金屋付近は衢(ちまた)とは言い難い」としている[4]

海柘榴市は『万葉集』などで「八十の衢(やそのちまた)」と称され、大小の道が四方から集まる交通の要衝であった[3]。また『日本書紀推古16年(608年)8月条には「隋の使者である裴世清難波津から小墾田宮に入った。その日に飾りつけた馬75匹を派遣して海石榴市の衢で迎えた」とあり、海柘榴市は都の外港でもあった[5]。渡里は金屋について「山辺の道が古代から存在したのか疑問である。さらに初瀬川と山辺の道が交差する地点に上陸すると、小墾田宮から遠く入京経路が不自然である」としている[4]

金屋から山辺の道を辿って南に進むと現在の外山(とび)で初瀬街道と交わり、近くには栗原川が流れている(Aエリア)[3]。この場所に比定する岸俊男(1970年)は、後述する海柘榴市の馬家と、『日本書紀』天武8年(679年)8月条にみえる迹見駅家(とみのうまや)が同一とみられる事を理由としている[6]。同じ場所に比定する『角川日本地名大辞典』(1990年)は、金屋に移ったのは平安期以降としている[1]

また、金屋から南西方向の現桜井駅の南側にある仁王堂付近を起点として、西に向かう横大路と東に向かう初瀬街道、北に向かう上ツ道と南に向かう安倍山田道といった古代の官道が交わり、そのすぐ近くを寺川が流れている(Bエリア)[3]。この場所に比定する渡里は、磐余市磯池の「市」を海柘榴市のこととし[7]、所在地を磐余の範囲内と推測している[4]。また『桜井市史』(1979年)では、外山(Aエリア)から仁王堂(Bエリア)を経て金屋に移動したとしている[3][8]

金屋に移動した理由については、延暦4年(926年)の初瀬川の自然災害とする説や[9]、京都から長谷寺へ向かう経路に移ったためとする説がある[4]

市と語源

海柘榴市は、軽市・阿斗桑市・餌香市と並び、飛鳥時代の代表的な市であった[5]。市が成立した時期は明らかではないが、樋口清之(1958年)は、付近の集落の形成から考えて2,3世紀から5世紀の間としている[10]。海柘榴市の市としての特徴について、中村修也(2001年)は海柘榴市が外港であった点に着目し、他の市と異なり東アジアの交易品が集まる市であったと推測している[9]

名称の海柘榴(つばき)は、いわゆるツバキあるいはサザンカだと考えられている[5][11]。交易する場所を意味する「市」の語源については「斎つ(いつ)」とする説があり、一種の聖域が古代の交易の場になったと考えられる。そのような古代の市には聖域の中心として神木があり、海柘榴市ではつばきが神木であったことが語源とする説がある[5][注釈 1]。そのほか、『万葉集』巻13の3222番歌の「末辺は椿花開く」から三輪山の麓に椿が植えられていたとする説や[12]、市の街路樹がつばきであったとする説もある[1]


注釈

  1. ^ 軽市には、阿斗桑市には、餌香市にはがあった[5]
  2. ^ 『古事記』では場所について「歌垣」とあるのみで、海柘榴市とは書かれていない[13]

出典

  1. ^ a b c d e f g 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990, pp. 728–729.
  2. ^ a b c d e f g h i j 日本歴史地名大系 1981, p. 430.
  3. ^ a b c d e 桜井市史編纂委員会 1979, pp. 75–77.
  4. ^ a b c d 渡里恒信 2008, pp. 169–172.
  5. ^ a b c d e f g h i 渡辺昭五 1980, pp. 22–32.
  6. ^ 岸俊男 1970, pp. 406–408.
  7. ^ 渡里恒信 2008, pp. 166–169.
  8. ^ 桜井市史編纂委員会 1979, pp. 80–81.
  9. ^ a b c 中村修也 2001, pp. 35–40.
  10. ^ 樋口清之 1958, pp. 90–94.
  11. ^ a b 桜井市史編纂委員会 1979b, p. 788.
  12. ^ 桜井市史編纂委員会 1979b, pp. 752–753.
  13. ^ a b c 渡辺昭五 1980, pp. 1–7.
  14. ^ 佐藤四信 1974, pp. 58–61.
  15. ^ 佐藤四信 1974, pp. 61–63.
  16. ^ a b c d e 保田與重郎 1988, pp. 137–138.
  17. ^ a b c 佐竹昭広ほか 2014, pp. 380–381.
  18. ^ a b 佐竹昭広ほか 2014, pp. 394–395.
  19. ^ a b 佐竹昭広ほか 2014, pp. 412–413.
  20. ^ 桜井市史編纂委員会 1979b, pp. 792–793.
  21. ^ 桜井市史編纂委員会 1979b, pp. 520–526.
  22. ^ 桜井市史編纂委員会 1979, pp. 183–185.


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