泗川の戦い 背景

泗川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 17:38 UTC 版)

背景

慶長3年/万暦26年(1598年)9月末から10月初めにかけて、明と朝鮮の連合軍は西から順天倭城小西軍)、泗川倭城(島津軍)、蔚山倭城加藤軍)、に対して同時攻勢をかけた。この攻勢は三路の陸軍と一路の水軍が挟撃し、朝鮮半島の南海岸に散在していた日本軍を一挙に壊滅させ、戦争を終結するという「四路並進策」によるものだった。

このうち総兵の董一元が率いる明・朝鮮連合軍(中路軍)が泗川倭城に攻め寄せた。泗川は日本軍の策源地であった釜山と日本軍最左翼の順天倭城・南海倭城の中間に位置するため、ここを落とされると西方にいる軍との連絡が分断される可能性があった。この泗川に駐屯していたのは、義弘と子の忠恒率いる島津軍1万のみであった[9]

軍や立花軍が援軍を申し入れるが義弘はそれを断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つこととなった[10]

泗川古城での前哨戦

泗川古城(泗川邑城)の城壁

明・朝鮮連合軍の大軍の動きを察知した義弘は、配下に守備させていた泗川古城・永春・昆陽・望晋の将兵に義弘のいる泗川新城に集結するよう命じた。このうち、泗川古城に配置されていた将兵は撤収することが遅れたため、明・朝鮮連合軍に包囲された。泗川古城は川上忠実を主将とし、およそ1万石の食糧を置いていたが、兵力はわずか数百にすぎなかった。慶長3年(1598年)9月27日、明軍は泗川古城を強襲、川上忠実は少数ながら頑強に抵抗し、城から出撃すると明将遊撃李寧・盧得功以下数百人を討ち取った。しかし、死傷者を多く出し危機的状況に陥っていたため、数の上で圧倒的に不利な川上忠実の軍勢は明・朝鮮連合軍の囲みを突破して泗川古城を放棄し、泗川新城への撤退を目指した。包囲を突破する際、忠実は36の矢を受け重傷を負い、150人余りが戦死したが泗川新城へ撤退することに成功した。

泗川古城の危急に対して泗川新城の義弘は、子の忠恒の援軍を派遣すべきだとする進言を島津軍の兵力が少数であることを理由に退け、泗川新城防備に徹した。また忠実は、瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した。大兵力の連合軍は食糧が不足していたが、食料庫を焼かれたことでさらに窮地に陥り、短期決戦を余儀なくされた。明軍は、接収した泗川古城において軍議を行い、10月1日をもって泗川新城の総攻撃を行うことに決した[11]

泗川新城での戦闘

泗川新城の天守台

義弘は泗川新城を背に強固な陣を張り、伏兵を配置した。連合軍の攻撃に対し、義弘は大量の鉄砲を使用したり、地雷を埋めるなどして対抗した。また、鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲も使用した。明将茅国器、葉邦栄、彭信古などは泗川新城の大手に、郝三聘、師道立、馬呈文、藍芳威などが左右に備え、董一元が中軍として泗川新城に攻め寄せた。

篭城戦で立ち向かった島津軍は敵軍を集中射撃してしのぎ、午後まで熾烈な接戦が繰り広げられた。戦闘が続く中、明軍の火薬庫に引火し爆発、火薬の煙が視野を遮ったことで明・朝鮮連合軍は混乱に陥った。折から白と赤の2匹の狐が城中より明軍陣営の方へ走って行った。これを見た島津軍は、稲荷大明神の勝戦の奇瑞を示すものとして大いに士気が高まったという[12]。この機に乗じて、島津軍は城門を開き打って出た。義弘は伏兵を出動させて敵の隊列を寸断して混乱させ、義弘本隊も攻勢に転じた。義弘自ら4人斬り、忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして奮戦した。混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、戦闘は幕を閉じた。

その後、集結して撤退できた連合軍の兵力は1万ほどであったという。この戦いにより義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ・グイシーマンズ)と恐れられ、その武名は朝鮮だけでなく明国まで響き渡った[13]

朝鮮王朝実録』には、三路の戦い(第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い)において、明・朝鮮軍は全ての攻撃で敗退し、これにより、三路に分かれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたと記述されている[14]


  1. ^ 『島津家文書』 文禄5年(1596)12月5日付けの「唐入軍役人数船数等島津家分覚書」によれば、慶長の役当時、朝鮮へ出征した島津軍は戦闘要員が5,868人、非戦闘員が6,565人(夫丸3,900、加子2,000、道具衆665)であり、計は12,433人となっている。更に島津以久が332人、伊集院忠棟が2,332人で、島津軍の総計は、15,097人であった。朝鮮上陸から島津が大きく兵力を失うほどの敗戦はなかったため、泗川の戦いの頃にもほとんどの軍勢を保存していたと推測される。
  2. ^ このうち非戦闘員を除く実際の兵力は約8千人程度だった。
  3. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日によれば、泗川攻略に投入された明の中路軍は26,800人、朝鮮軍は2,215人と記録されている。
  4. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十日 「慶尚道觀察使鄭經世馳啓曰: 董都督初二日、入攻新寨之賊、打破城門、方欲入攻之際、茅遊撃陣中、火藥失火。蒼黄奔救、倭賊望見開門、突出放砲、天兵退遁、致死者、幾七千餘人、軍糧二千餘石、亦不爲衝火而退。伏屍盈野、兵糧、器械、狼藉於百三十里地、提督退還星州」
  5. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110008_007 『朝鮮宣祖実録』"遂進攻新寨, 以大砲打破城門, 大兵欲入之際, 茅遊擊陣, 火藥失火, 陣中擾亂, 倭賊望見開門, 迎擊左右, 伏兵四起, 大兵蒼黃奔潰, 死亡之數, 幾至七八千, 提督退晋州’ 云矣。"
  6. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110016_003 『朝鮮宣祖実録』”泗川之敗, 提督之軍, 過半致死”
  7. ^ 『島津家文書』には、島津忠恒の鹿児島方衆が10,108、島津義弘の帖佐方衆が9,520、冨隈(島津義久領)方衆が8,383、伊集院忠真の軍が6,560、北郷三久の軍が4,146、計38,717の首級を上げ、打ち捨てた死体数知れずと記録されている。また後述の通り『絵本太閤記』には、討ち取った明軍の数は3万余とある。《南浦文集·战亡文》や《新日本史》など日本側記録では「戦死者約8万人」とあるほか、朝鮮の『宣祖実録』の十月十二日の項には、この泗川の戦い・第二次蔚山城の戦い順天城の戦いの3つを合わせて、明・朝鮮連合軍11万以上が動員されたと記されている。
  8. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「泗川の戦い」
  9. ^ 東郷吉太郎編 『泗川新寨戦捷之偉蹟』 「義弘公年譜抄」 薩藩史料調査会、1918年10月。
  10. ^ 明史によると、戦の終盤に固城の日本軍(立花軍)も襲来していたため、明軍は遂に大敗し潰走した。十月,董一元遣將四面攻城,用火器擊碎寨門,兵競前拔柵。忽營中火藥崩,烟焰漲天。倭乘勢衝擊,固城倭亦至,兵遂大潰,奔還晉州『明史 朝鮮伝』
  11. ^ 島津顕彰会編 『島津歴代略記』、1986年10月。
  12. ^ この時の2匹の狐にまつわる踊りが「吉左右踊り」で、鹿児島県無形民俗文化財に指定されている。
  13. ^ 三木靖 『島津義弘のすべて』 新人物往来社、1986年7月。ISBN 4404013566
  14. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十二日 「而三路之兵、蕩然俱潰、人心恟懼、荷擔而立」
  15. ^ 『明神宗実録』巻328, 萬暦二十六年十一月一日
  16. ^ 『朝鮮宣祖実録』三十一年(1598)十月十七日
  17. ^ 那波利貞 『月峯海上録攷釈』 1961年






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「泗川の戦い」の関連用語

泗川の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



泗川の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの泗川の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS