橋本龍伍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/22 20:15 UTC 版)
エピソード
人柄・性格
小学校はなんとか卒業することができたが、逗子開成中学に進むころから闘病生活に入った。闘病生活の間に独学で勉強し、検定で逗子開成中学を卒業した。病院から退院した時には高等学校の受験資格を得ていたため、第一高等学校に進学するべく願書を提出した。しかし身体障害者は軍事教練ができないという理由で、願書は突き返された。ひとまず慶應義塾大学に入学したが、入学したのと同時に連日文部省に通い直談判した。その結果、受験資格の認定制度が改定され、自分で行動できる障害者にも官立の旧制高等学校、大学への受験資格が与えられるようになった[10]。慶應を卒業することはなかったが、一度自分に門戸を開いてくれた学校への愛着は変わらず、長男龍太郎の慶應義塾大学進学を大変喜んだという。
龍伍について長男龍太郎は「物心つくころから私には父におぶってもらったり抱いてもらったという記憶はありません。いつも松葉杖かステッキをついている父の後を追って歩いた、そんな思い出だけが残っています」[11]。「私が自分の父親を尊敬し今でも誇りに思うのはそのハンディキャップにもかかわらず自分の人生を自分の力で切り拓いていった、その強靭な精神力です。そして絶対に物事に対してあきらめを持たなかった。本当に挑戦者という姿勢を生涯とり続けたことです」と述べている[12]。
思想問題で官憲に追及されている友人を下宿にかくまったことにより、警察に2度拘留された[13]。
自身の体が不自由だったことから、「政治は弱い人のためにある」を政治信条にしていた。この信条は龍太郎にも引き継がれ、厚生族としてのキャリアを政界で重ねていくこととなる[14]。
その他
趣味は登山、写真、美術鑑賞、和歌。宗教は臨済宗。住所は東京都港区麻布仲ノ町、岡山県総社市秦下[15]。
- ^ 『岡山県歴史人物事典』には“東京都出身”とある。
- ^ 『第廿一版 人事興信録 下』昭和36年(1961年)、は二八に「東京都渋谷区在籍」とある。
- ^ 橋本龍伍著『独占禁止法と我が国民経済』日本経済新聞社、1947年、奥付・著者略歴
- ^ この選挙での当選同期に池田勇人・佐藤栄作・岡崎勝男・前尾繁三郎・麻生太賀吉・小渕光平・西村英一・橋本登美三郎・福永健司・福田篤泰・塚原俊郎・藤枝泉介・木村俊夫・稲葉修・河本敏夫・森山欽司・床次徳二・有田喜一など
- ^ 本田雅俊 (2008-07-29). 総理の辞め方. PHP研究所. pp. 234-235. ISBN 978-4-569-70085-4
- ^ a b 『人事興信録 5版』(大正7年)は八五
- ^ a b c 『明治大正人物史』
- ^ a b c d e f 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』 112頁
- ^ 石光真清著『城下の人』
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』 12-14頁
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』11頁
- ^ 『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』15頁
- ^ 『岡山県歴史人物事典』
- ^ “橋本龍太郎”. www.kantei.go.jp. 2020年10月17日閲覧。
- ^ 『第廿一版 人事興信録 下』昭和36年(1961年)、は二八より
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