本庄茂平次 本庄茂平次の概要

本庄茂平次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 03:53 UTC 版)

長崎町年寄の高島秋帆にかねてより恨みを抱き[6]、秋帆を謀叛・公金横領・密貿易などの疑いで告発する文書を鳥居耀蔵に提出して[7]、天保13年(1842年)正月には鳥居の家臣に取り立てられる[8][9][10]。同年5月には長崎から江戸に呼び寄せた養女聟の峯村幸輔、元唐通事の河間八平次(八兵衛)たちとともに秋帆を告発する[8][11][12]

平出鏗二郎著『敵討』では、本庄茂平次と名乗っていたが後に本庄辰輔(ほんじょう たつすけ)に改名したとされているが[13]、事件の供述書にはすべて「茂平次」の名で書かれていて辰輔とよばれることは一度もないために松岡英夫は「本庄茂平次」が正しいとしており[14]加来耕三は鳥居家の家人となってから「茂平次」と名乗るようになったと考えている[11]

かつて長崎では唐商売オランダ方を勤めていて、不行跡が重なって長崎を出奔したというが、その不行跡がどのようなものか、いつごろ江戸に来たか[15]、江戸で医学を修めたというがどの程度の医業であったかなど、不明な点が多い[16]

鳥居耀蔵との接触

本庄が鳥居の家来になった経緯については、2つの説がある。

『天弘録』の「鳥居甲斐守元家来本庄茂平次え申渡書」によれば、鳥居が長崎奉行になるという風聞が流れたことから出世の手だてとして本庄が鳥居に近づき、長崎取締りのことで申し立てをしたということになっている[6][17]

「矢部駿州と鳥居甲斐」(栗本鋤雲著『匏菴遺稿』(明治33年・裳華書房)所収)では、天保11年当時目付だった鳥居が長崎の事情をひと通り心得ていたいと考え、同僚の目付・水野采女のもとに出入りしていた本庄茂平次という男に接触したとある。本庄は長崎の商法や取締筋のことなどをたずねられた後、翌月(5月)に長崎へ出かけ、同年9月中に江戸に戻ってきて長崎商法取締筋などについて町年寄どもへ申し立てておいた書面の写しを鳥居に差し出したという[18]

教光院事件

水野忠邦は、大御所時代に権勢を振るった11代将軍徳川家斉の寵臣たちを幕閣から排除したが、中でも「天保の三侫人」と呼ばれた者の1人水野忠篤を葬るために鳥居は策動した。

水野忠篤は、追放された後、水野忠邦のやり方を恨みに思って、武州大井村に住む教光院の修験者・了善に忠邦を呪詛する祈祷をさせたという噂が流れた。本庄は当時江戸町奉行になっていた鳥居に命じられて、教光院に潜入した[9][19]。水野忠篤の元家来の金八と名乗り、了善に忠邦の呪詛を依頼するが、断わられると何でもいいからお祈りをあげてくれと頼み、初穂金を差し出して受け取りをもらった。そして教光院に泊りこみ、了善の弟子になって水行などを行なったが、そこで帳面や信者からの手紙などを調べた際に、内藤外記に嫁いでいる水野忠篤の娘が了善に祈祷を依頼した書翰があり、祈祷依頼の帳面から忠篤と家来の名が見つかった。

本庄がこれらを証拠として鳥居に提出した後、天保13年6月18日に南町奉行所の捕り方が教光院にいた了善を捕え、水野忠邦を呪詛したとして自白を迫った。本庄は取り調べの際に了善に名乗った「金八」として了善と突き合わせ吟味を行ない、教光院に忠邦の呪詛を依頼したと供述した[20]

「水野忠篤が処罰を受けたのは水野忠邦の間違いであるから、忠邦の勢いをくじき、忠篤が再勤となるように祈祷してくれと、忠篤の娘より頼まれて、やむを得ず承諾した。呪詛の方法など知らないので、忠篤の身辺の厄除けの祈祷をしただけ」というのが了善の供述であった。しかし水野老中の地位に障害が出てるようにとの依頼を受けて承知したのは、やはり忠邦呪詛の筋に相当するとして責めたところ、了善は答えに窮して恐れいった[21]

吟味の結果、了善は遠島、水野忠篤は信州諏訪高島の諏訪因幡守にお預けとなり、翌年病死した[9]。事件の後、本庄は表向きは湯治から帰ったことにしてそのまま鳥居に仕えていたが[22]、この件で鳥居からはわずかばかりの報酬しか渡されなかった[23]

高島秋帆告発

鳥居の縁戚にあたる伊沢政義長崎奉行に就任し、鳥居の意を受けて高島秋帆たち長崎の地役人たちを捕えた際には、本庄たちによる讒訴を元に取り調べが行われた[8][24]

本庄の高島秋帆への恨みについては、三田尻の儒学者・荒瀬桑陽の『崎陽談叢』(防府史料第七輯、昭和38年)や、『天弘録』、『長崎犯科帳』の「福田源四郎」の項などに記録が残されている。本庄はかつて、鳥居耀蔵や水野采女などの権家に出入りし、その縁をもって長崎の地役人たちの身分昇進を取り計らおうと提案していた。しかし、高島秋帆に本庄の身持ちの悪さを理由に反対され、申し出が却下されてしまったことで、秋帆に恨みを抱いたとされる[18]

高島秋帆たちの取り調べが続く天保14年4月に、本庄は妻子を連れて長崎にいったん帰りたいと鳥居に願い出て、80日の休暇と、路銀として10両を貸し与えられた。しかし、本庄は他の家来たちと日ごろから折合いが悪く、二度と鳥居家に仕えさせないようにしてくれという希望が出されており、また事件を取り調べている最中に長崎出身の者を家来にしているのは都合が悪いため、そのまま解雇された。本庄は鳥居の家臣・永江弾右衛門から、貸し与えた金は返却しなくともよい代わりに永の暇を申し渡され、鳥居家に帰参する時節があるかもしれぬが、それまでは江戸に出府無用との手紙を渡された[22]


  1. ^ 「その頃下谷広徳寺前あたりに罷りあり候俗医本庄辰輔事茂平次」(『匏菴遺稿』より)。
  2. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、112-113頁。『評伝 高島秋帆』 石山滋夫著 葦書房、167-172頁。加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245頁。「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、102頁。
  3. ^ a b 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、54頁。
  4. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、139-140頁。加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245頁。
  5. ^ a b c d 「二三 江戸神田護持院原熊倉伝十郎・小松典膳の敵討」平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、206-208頁。
  6. ^ a b 「鳥居甲斐守元家来本庄辰輔事茂平次え申渡書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、89-91頁。
  7. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、139-140頁。
  8. ^ a b c 広瀬隆著 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、137-138頁。
  9. ^ a b c 「政敵を葬る」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、272-274頁。
  10. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、142-143頁。「第五 災厄――長崎事件 一 原因」有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、154-157頁。
  11. ^ a b c d 加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245頁。
  12. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、142-143頁。「第五 災厄――長崎事件 一 原因」有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、154-157頁。「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、92-93頁。
  13. ^ 平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、206頁。
  14. ^ a b c d e f g h 「本庄茂平次、護持院ヶ原に敵討ちされる」松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、170-175頁。
  15. ^ 江川太郎左衛門宛、高島秋帆救済嘆願の手紙によれば、本庄は長崎で博打をしていたことで当地にいられなくなり、天保11年に江戸に出府したと記載されている(石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、229-230頁)。
  16. ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、167-172頁。
  17. ^ 『評伝 高島秋帆』 石山滋夫著 葦書房、167-172頁。石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、172-177頁。
  18. ^ a b 『評伝 高島秋帆』 石山滋夫著 葦書房、167-172頁。
  19. ^ 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、56頁。松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119、144-146頁。
  20. ^ 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、56頁、91頁。「政敵を葬る」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、272-274頁。松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119、144-146頁。
  21. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、144-146頁。
  22. ^ a b 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、148-149頁。
  23. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119頁。
  24. ^ 「水野忠邦もおとしいれる」丹野顯著 『江戸の名奉行』 新人物往来社、268-271頁。「西洋砲術」『実録 江戸の悪党』 山下昌也著 学研新書、274-277頁。
  25. ^ 『天弘録』巻之四(『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、106頁)では、12月26日。
  26. ^ 「想古録」では、「井上伝八郎」。
  27. ^ a b c 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、273-275頁。
  28. ^ a b c 加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245-246頁。
  29. ^ 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、106-107頁。
  30. ^ 「熊倉伝十郎え申渡書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、110-111頁。「本庄茂平次、護持院ヶ原に敵討ちされる」松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、170-175頁。
  31. ^ a b c d e f 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、172-177頁。
  32. ^ 森銑三著『史伝閑歩』中央公論社、昭和60年。
  33. ^ 元勘定奉行の岡本近江守の話を元にした「想古録」(明治30年12月19日版『東京日日新聞』)がニュースソースとなっている。
  34. ^ a b 加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、247頁。
  35. ^ 丹野顯著 『江戸の名奉行』 新人物往来社、268頁。松島栄一著 NHK日本史探訪『鳥居耀蔵』角川書店。
  36. ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、112-113頁。
  37. ^ 「裁かれる耀蔵」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、281-283頁。松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119頁。
  38. ^ a b 「第五 災厄――長崎事件 三 判決」有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、161-168頁。
  39. ^ 「長崎一件」収録の「書取申上之書類」。
  40. ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、262-263頁。
  41. ^ 天保15年6月30日・弘化2年3月27日・弘化3年1月19日の3回。
  42. ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、272頁。「二三 江戸神田護持院原熊倉伝十郎・小松典膳の敵討」平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、206-208頁。「鳥居甲斐守元家来本庄辰輔事茂平次え申渡書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、91頁。
  43. ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、273-275頁。平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、105頁。「二三 江戸神田護持院原熊倉伝十郎・小松典膳の敵討」平出鏗二郎著 同書、206-208頁。
  44. ^ 「耀蔵の判決」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、283-284頁。
  45. ^ 「元松平隠岐守家来熊倉伝十郎口書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、109頁。
  46. ^ 「(二) 師のためにせし敵討。」平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、62-63頁。
  47. ^ 「丹州十津川浪人小松典膳口書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、109-110頁。「熊倉伝十郎え申渡書」同書、111頁。「三田同朋町金蔵店弥兵衛方に居候浪人小松典膳え申渡書」同書、112頁。
  48. ^ 『森鴎外集 (二)』現代日本文學大系8 筑摩書房。


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