本庄茂平次
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鳥居失脚
後に水野忠邦は腹心であったはずの鳥居耀蔵の裏切りなどもあり、改革は挫折し幕閣を追われた。しかし、水野は再度幕閣に復帰することになり、その際、鳥居を失脚させるための証拠集めを始めた。
そのころ、本庄茂平次は、鳥居に使い捨てられており、妻子を連れて長崎に戻ろうとしたが十分な路銀が無かった。それで、自分と同様に鳥居の手先を務めたが同じように見捨てられた小普請組の浜中三右衛門に、餞別に路銀をもらおうと挨拶をしに行った。浜中は、当時下谷で町医者をしていた本庄の紹介で鳥居耀蔵に会い、それから密偵を務めるようになった人物だったが[36]、その浜中に本庄は水野忠篤を罪に落とした教光院事件の内幕(#教光院事件の節を参照)を話した。この件が浜中を通して水野忠邦にも伝わり、これが鳥居の失脚の一因になった[37]。
護持院原の仇討ち
弘化2年(1845年)2月に鳥居耀蔵の審問が始まり、本庄も2月19日に長州赤間ヶ関(=下関)長崎村で召し捕られ、3月26日に江戸へ送られた[3][27][38]。評定所五手掛が老中牧野忠雅に提出した答申書[39]によれば、本庄が秋帆に遺恨を含んで讒訴したこと、この一件の連累者たちが同様のことをいって不服を唱えていたことなどが明らかにされている[40]。
鳥居耀蔵は家禄没収のうえ、他藩御預けとなり、手先を務めた浜中三右衛門と石河疇之丞は追放に処された。
本庄は、弘化3年(1846年)7月25日、本来遠島であるところ、拘留中に牢屋敷で3度火事があり[41]、一時解き放ちになった後に戻ってきたことから減刑されて中追放と決まった[14][28][38][42]。しかし、弘化3年8月6日、本庄は解き放たれた護持院原で討たされて死亡。享年45[11][14][43]。
本庄を討ったのは、井上伝八郎の甥・伝十郎だった(#井上伝八郎暗殺の節を参照)[11][44]。かつて本庄が暗殺した井上伝兵衛の弟・熊倉伝之丞とその子の伝十郎が、伝兵衛の死を知って、敵討のために浪人して江戸に出た[45]。伝兵衛の暗殺が本庄茂平次の仕業と判明して本庄を追うが、それを知った本庄は伝之丞を殺させた[5][31]。伝十郎は、伝兵衛の剣術の弟子だった[46]大和十津川の浪人・小松典膳とともに本庄を探し続けるが、このころ本庄は鳥居に縁を切られて長崎に戻っていたため、見つからなかった。しかし本庄が捕縛され、中追放の刑となったことを知り、本庄が神田橋を渡って元護持院二番ヶ原にきたところを伝十郎と典膳が名乗りをかけて斬りつけ、討ち果たした[5][14][28][47]。松岡英夫や加来耕三は、敵討ちを願い出ていた熊倉伝十郎と小松典膳に本庄を討たせるために、本庄が追放される日と場所を町奉行所が教えていたのではないかと考えている[14][34]。
なお、「護持院ヶ原の敵討」と呼ばれる敵討は、これ以外にも天保6年7月13日の山本りよ(女性)、山本九郎右衛門(りよの叔父)によるものがあるが、これは本庄茂平次が討たれたものとは無関係である[14][27]。こちらの敵討は、森鷗外の小説『護持院原の敵討』の題材となっている[48]。
登場作品
- 小説
- ^ 「その頃下谷広徳寺前あたりに罷りあり候俗医本庄辰輔事茂平次」(『匏菴遺稿』より)。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、112-113頁。『評伝 高島秋帆』 石山滋夫著 葦書房、167-172頁。加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245頁。「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、102頁。
- ^ a b 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、54頁。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、139-140頁。加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245頁。
- ^ a b c d 「二三 江戸神田護持院原熊倉伝十郎・小松典膳の敵討」平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、206-208頁。
- ^ a b 「鳥居甲斐守元家来本庄辰輔事茂平次え申渡書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、89-91頁。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、139-140頁。
- ^ a b c 広瀬隆著 『文明開化は長崎から』下巻 集英社、137-138頁。
- ^ a b c 「政敵を葬る」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、272-274頁。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、142-143頁。「第五 災厄――長崎事件 一 原因」有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、154-157頁。
- ^ a b c d 加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245頁。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、142-143頁。「第五 災厄――長崎事件 一 原因」有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、154-157頁。「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、92-93頁。
- ^ 平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、206頁。
- ^ a b c d e f g h 「本庄茂平次、護持院ヶ原に敵討ちされる」松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、170-175頁。
- ^ 江川太郎左衛門宛、高島秋帆救済嘆願の手紙によれば、本庄は長崎で博打をしていたことで当地にいられなくなり、天保11年に江戸に出府したと記載されている(石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、229-230頁)。
- ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、167-172頁。
- ^ 『評伝 高島秋帆』 石山滋夫著 葦書房、167-172頁。石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、172-177頁。
- ^ a b 『評伝 高島秋帆』 石山滋夫著 葦書房、167-172頁。
- ^ 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、56頁。松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119、144-146頁。
- ^ 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、56頁、91頁。「政敵を葬る」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、272-274頁。松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119、144-146頁。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、144-146頁。
- ^ a b 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、148-149頁。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119頁。
- ^ 「水野忠邦もおとしいれる」丹野顯著 『江戸の名奉行』 新人物往来社、268-271頁。「西洋砲術」『実録 江戸の悪党』 山下昌也著 学研新書、274-277頁。
- ^ 『天弘録』巻之四(『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、106頁)では、12月26日。
- ^ 「想古録」では、「井上伝八郎」。
- ^ a b c 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、273-275頁。
- ^ a b c 加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、245-246頁。
- ^ 「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、106-107頁。
- ^ 「熊倉伝十郎え申渡書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、110-111頁。「本庄茂平次、護持院ヶ原に敵討ちされる」松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、170-175頁。
- ^ a b c d e f 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、172-177頁。
- ^ 森銑三著『史伝閑歩』中央公論社、昭和60年。
- ^ 元勘定奉行の岡本近江守の話を元にした「想古録」(明治30年12月19日版『東京日日新聞』)がニュースソースとなっている。
- ^ a b 加来耕三著 『評伝 江川太郎左衛門』 時事通信社、247頁。
- ^ 丹野顯著 『江戸の名奉行』 新人物往来社、268頁。松島栄一著 NHK日本史探訪『鳥居耀蔵』角川書店。
- ^ 松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、112-113頁。
- ^ 「裁かれる耀蔵」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、281-283頁。松岡英夫著 『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』 中公新書、116-119頁。
- ^ a b 「第五 災厄――長崎事件 三 判決」有馬成甫著 『高島秋帆 人物叢書』 吉川弘文館、161-168頁。
- ^ 「長崎一件」収録の「書取申上之書類」。
- ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、262-263頁。
- ^ 天保15年6月30日・弘化2年3月27日・弘化3年1月19日の3回。
- ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、272頁。「二三 江戸神田護持院原熊倉伝十郎・小松典膳の敵討」平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、206-208頁。「鳥居甲斐守元家来本庄辰輔事茂平次え申渡書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、91頁。
- ^ 石山滋夫著 『評伝 高島秋帆』 葦書房、273-275頁。平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、105頁。「二三 江戸神田護持院原熊倉伝十郎・小松典膳の敵討」平出鏗二郎著 同書、206-208頁。
- ^ 「耀蔵の判決」山下昌也著 『実録 江戸の悪党』 学研新書、283-284頁。
- ^ 「元松平隠岐守家来熊倉伝十郎口書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、109頁。
- ^ 「(二) 師のためにせし敵討。」平出鏗二郎著 『敵討』 中公文庫、62-63頁。
- ^ 「丹州十津川浪人小松典膳口書」「天弘録」『日本随筆大成 続 別巻8』(吉川弘文館)所収、109-110頁。「熊倉伝十郎え申渡書」同書、111頁。「三田同朋町金蔵店弥兵衛方に居候浪人小松典膳え申渡書」同書、112頁。
- ^ 『森鴎外集 (二)』現代日本文學大系8 筑摩書房。
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