新約聖書
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正典の成立
正典以前
『新約聖書』は初めから現在のような正典として登場したわけではなかった。すでに教父たちの文書によって、教会内で正典的に読まれる文書群には一定の振幅があったことは知られていたが、20世紀のナグ・ハマディ写本の発見などにより、初代教会の時代では、使徒の手紙や様々な福音書や黙示録など、現在聖書に含まれるよりはるかに多くの文書が作成されていたことがわかってきた。
これらの文書は礼拝や信仰教育に用いられた。最初の数百年間には、ある文書が正統か非正統かは大規模な教会会議ではなく少人数グループの集会で決定されたと推定される。信仰グループにより思想が異なり、聖典はグループごとに異なっていたことだろう。このように初期の三つの世紀ではまだ「新約聖書」は確定しておらず、様々な観点から書かれた多数の文書が乱立していたと推測される。
その中で2世紀までには、マタイ以下の四福音書とパウロの書簡集が有力視されていったが、他の書物の優劣は未確定であった。2世紀のエイレナイオスとテルトゥリアヌスは、四福音書と13のパウロ書簡を含むいくつかの使徒書簡を、霊感によって書かれたものでヘブライ語の書物(『旧約聖書』)と同じ価値を持つとした。それ以外の書物は尊重されてはいたが、一般には『新約聖書』と同じ権威をもつとは考えられておらず、ゆっくりと正典群からは排除されていった。
正典化の動き
『新約聖書』正典の確定作業は、シノペのマルキオンの「正典」選択作業に始まる。彼は旧約聖書を排除し、『ルカ福音書』とパウロ書簡(いわゆる「牧会書簡」3通を除く)のみを「正典」とした(ただし、旧約の引用などを削除したマルキオンの編集によるものである)。ところがマルキオンに従ったものは多くはなく、さらに彼自身も異端として排除されてしまう。同時期に古代教会内でも正典化の議論が本格化したと推定される。200年頃には「ムラトリ断片」といわれる正典リストが作成された。このムラトリ断片の正典表は、現代の『新約聖書』とほぼ同じであるが、現在では外典である『ソロモンの知恵』と『ペトロの黙示録』が含まれる。
現代の『新約聖書』の文書と一致する文書表がはじめて現れるのはアレクサンドリアのアタナシオスの367年の書簡である(『アタナシオスの第39復活祭書簡』)。この手紙の中に書かれた文書群が新約聖書正典として一応の確定を見たのは397年の第3回カルタゴ教会会議においてであった。しかしこの会議においても『ヤコブの手紙』と『ヨハネの黙示録』の扱いについては決着しなかった。時期が飛んで16世紀、宗教改革者マルティン・ルターはあらためて『ヤコブの手紙』、『ユダの手紙』、『ヘブライ人への手紙』、『ヨハネの黙示録』の扱いについて議論を提起した(最終的には排除されなかった)。現代でもドイツ語のルター聖書はこれらの書物を最後にまとめているのはその名残である。このような宗教改革者の動きを受けたカトリック教会はトリエント公会議において何が正典かということを再確認している。
注釈
- ^ 青柳ほか(1995)によると「彼は王国の滅亡、捕囚というイスラエルの苦難が、律法にそむいた罰であると宣告する。しかし、自問し苦悶する彼に、神の意志として啓示されたのは、契約を破ったイスラエルの罪を許し、再び彼らとの間に「新しい契約」を結ぶというものであった。彼の預言には、それまでの預言者にはない神の愛と救済が述べられており、イエスの教えに通じるものがみられる。」とされる[6]。
- ^ 批判学の見解では実際の著者とは限らないと主張される。
出典
- ^ “諸啓典への信仰”. IslamReligion.com. 2018年11月7日閲覧。
- ^ アリスター・マクグラス『キリスト教神学入門』教文館 p.226
- ^ 和田幹男『私たちにとって聖書とは何なのか-現代カトリック聖書霊感論序説』女子パウロ会 p.137
- ^ Quaestiones in Heptateuchum 2, 73
- ^ 尾山令仁著『聖書の権威』日本プロテスタント聖書信仰同盟 (再版:羊群社) p.100
- ^ 青柳知義ほか『新資料集 倫理』一橋出版、1995年。ISBN 4891965150。
- ^ 『エレミヤ書』 - コトバンク
- ^ Carson & Moo 2009, p. 246
- ^ 『聖書翻訳を考える』『聖書翻訳を考える(続編)』新改訳聖書刊行会
- ^ 『日本における聖書とその翻訳』
- ^ 尾山令仁『聖書翻訳の歴史と現代訳』暁書房
- ^ 中村敏『日本における福音派の歴史』いのちのことば社
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