新約聖書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 13:47 UTC 版)
名称
旧約、新約という名称そのものに信仰的な意味がある[2]。これは神と人間との古い契約の書が旧約聖書であり、新しい契約が新約聖書という意味である[3]。アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に現わされている。」[4]ということばは有名である。[5]
「新約聖書」という名称はギリシア語の「カイネー・ディアテーケー」(Καινή Διαθήκη)あるいはラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」(Novum Testamentum)という言葉の訳であるが、もとはヘブライ語に由来している。「カイネー・ディアテーケー」という言葉はすでにセプトゥアギンタのエレミヤ書31:31に見ることができるが、ヘブライ語では「ベリット・ハダシャー」(ברית חדשה)である。紀元前7世紀後半のエレミヤの「新しい契約」の思想[注釈 1]は新約聖書の著者に強い影響を与えたとされる[7]。
新約すなわち新しい契約という呼び方は、はじめイエス・キリストによって神との契約が更新されたと考えた初代教会の人々によって用いられた。2世紀のテルトゥリアヌスやラクタンティウスは神との新しい契約を示した書物の集合として「新約聖書」という言葉を用いている。ラテン教父のテルトゥリアヌスは初めてラテン語の「ノーヴム・テスタメントゥム」という言葉を用いている。たとえば『マルキオン反駁』3巻14では「これは神の言葉としてうけとられるべき二つの契約、すなわち律法と福音である」といっている。
5世紀のラテン語訳聖書(ヴルガータ)では『コリントの信徒への手紙二』3章で「新しい契約」(Novum Testamentum)という言葉が使われている。
注釈
- ^ 青柳ほか(1995)によると「彼は王国の滅亡、捕囚というイスラエルの苦難が、律法にそむいた罰であると宣告する。しかし、自問し苦悶する彼に、神の意志として啓示されたのは、契約を破ったイスラエルの罪を許し、再び彼らとの間に「新しい契約」を結ぶというものであった。彼の預言には、それまでの預言者にはない神の愛と救済が述べられており、イエスの教えに通じるものがみられる。」とされる[6]。
- ^ 批判学の見解では実際の著者とは限らないと主張される。
出典
- ^ “諸啓典への信仰”. IslamReligion.com. 2018年11月7日閲覧。
- ^ アリスター・マクグラス『キリスト教神学入門』教文館 p.226
- ^ 和田幹男『私たちにとって聖書とは何なのか-現代カトリック聖書霊感論序説』女子パウロ会 p.137
- ^ Quaestiones in Heptateuchum 2, 73
- ^ 尾山令仁著『聖書の権威』日本プロテスタント聖書信仰同盟 (再版:羊群社) p.100
- ^ 青柳知義ほか『新資料集 倫理』一橋出版、1995年。ISBN 4891965150。
- ^ 『エレミヤ書』 - コトバンク
- ^ Carson & Moo 2009, p. 246
- ^ 『聖書翻訳を考える』『聖書翻訳を考える(続編)』新改訳聖書刊行会
- ^ 『日本における聖書とその翻訳』
- ^ 尾山令仁『聖書翻訳の歴史と現代訳』暁書房
- ^ 中村敏『日本における福音派の歴史』いのちのことば社
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