嵐作戦
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その後
軍事および政治
嵐作戦の直後の頃、クロアチア軍とクロアチア内務省(MUP)の部隊はクライナで一連の追加作戦を指揮した。クライナに展開したクロアチア軍の大部分は1995年8月のうちにこの地を去った。クロアチアとボスニアの両国の軍はその後ボスニア西部へ攻勢を続け、ボスニアのセルビア人勢力(スルプスカ共和国)の事実上の首都であるバニャ・ルカへと迫った。
嵐作戦は、1992年からセルビア人勢力の包囲下に置かれていたビハチの包囲を解いた。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍第5軍団の将軍アティフ・ドゥダコヴィッチ(Atif Dudaković)は、嵐作戦がフラニョ・トゥジマンとボスニア大統領アリヤ・イゼトベゴヴィッチとの間で交わされ、ビハチの包囲を解くことを誓約したスプリト合意に基づくものであったと話した[39]。
セルビア共和国大統領スロボダン・ミロシェヴィッチも、セルビア人主導のユーゴスラビア連邦軍も、嵐作戦の間クライナの支援には動かなかった。ミロシェヴィッチはクロアチアの軍事攻撃を非難したものの、セルビア政府の支配下にあるメディアはクライナ・セルビア人共和国の指導部をも非難し、彼らは指導者にふさわしくない者たちであったとした[40]。
嵐作戦によって、地域の軍事バランスは一転した。NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナでの空爆作戦とともに、嵐作戦とその後に続くボスニア・ヘルツェゴビナでの軍事攻勢は、和平交渉を続ける上で致命的に重要なものであったと考えられている。その結果によって、デイトン合意が結ばるに至った。
大規模に宣伝されたこの出来事の中で、クロアチアの勝利と統一の象徴として、クロアチア政府はザグレブからクニンを結ぶ「自由の列車」を運行した。クロアチア紛争が始まってから、稲妻作戦および嵐作戦が実施されるまでの間、クロアチアの領土は2つに分断され、両者の間の連絡は皆無に等しかった。
2005年、クロアチアの大統領イーヴォ・サナデルは、「嵐作戦は、我々が誇るべき輝かしい歴史的な軍事・警察作戦であり、占領下に置かれたクロアチア中部を解放した作戦である」とした。さらにサナデルは、主権国家が占領された場合、その領土を解放する権利があるとした。
戦争犯罪
クロアチア軍はまた、セルビア人市民とその財産に対する大規模な作戦行動も指揮し、後に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって訴追を受けることとなった[41]。クロアチア軍がセルビア人市民の財産の大規模な破壊と略奪を実行したと報じられている[3]。
ICTYの主任検察官は、クロアチア軍の作戦では、「『放火本部』は燃えやすい燃料や発火させる銃弾、爆発物を用い…複数の町や村を完全に破壊した」と訴えた。この作戦の目的は、検察官によると、クライナのセルビア人たちの帰還を不可能とすることであった[41]。
さらに、訴えによると、数百人に上るクライナのセルビア人が嵐作戦の間に殺害されるか行方不明となっているとしている。特に記すべき事項として、5人(あるいは6人)のセルビア人市民が、クニンの北のプラヴノ渓谷(Plavno)のグルボリ(Grubori)にて8月25日に殺害された件、18人のセルビア人市民がヴァリヴォデ(Varivode)、ゴシチ(Grubori)や、旧国連保護区南地区のその他の集落で9月に殺害された件などがある。この間、他の場所でも同様な個人、あるいは同じ世帯の複数の市民に対する殺害が続いた。
1995年11月、国際連合クロアチア信頼回復活動(United Nations Confidence Restoration Operation; UNCRO)は、この作戦によって128人の市民が殺害され、クニン地域の建築物の73%が破壊されたとの推定を報告した。
122箇所あったセルビア正教会の聖堂のうち、17箇所が損害を受けたものの、完全に破壊されたのは1箇所に留まった。1995年9月の国際連合クロアチア常設ミッションのコミュニケによると、聖堂の破壊のほとんどはセルビア人の退却より前に起こったとしている[42]。
嵐作戦の後、クロアチア当局は3000を超える遺体を発掘した。クロアチア当局はこれらの遺体について、クライナ地域でセルビア人勢力による民族浄化作戦で殺害され、埋設されたクロアチア人であるとしている[43]。
2008年6月、アンテ・ゴトヴィナに対する裁判の中で、カナダ人の将軍アンドリュー・レスリー(Andrew Leslie)は、1万人から2万5千人の市民がこの作戦によって死亡したと主張した[44]。
難民
クライナを脱出したセルビア人のほとんどがボスニア・ヘルツェゴビナのバニャ・ルカか、セルビア共和国に移動した。その多くがセルビア本国かヴォイヴォディナ自治州、一部はアルバニア人が多数を占めるセルビア領のコソボ・メトヒヤ自治州に移住した。
攻勢の直後、セルビアは難民の受け入れを始めたが、8月12日・13日ごろから、クライナから到着した難民のうち身体の健全な男性を徴兵し、セルビア人勢力が支配する東スラヴォニアやボスニア・ヘルツェゴビナ領に送った[45]。8月12日、セルビアはまた、従軍可能年齢にある男性はこれ以上ボスニア領からセルビアに入国することは出来ないとし、8月4日からこれまでの間にすでに107,000人のクライナ難民を受け入れているとした。
難民の中には、ユーゴスラビア連邦当局によって不法移民であるとされ、セルビアへの入国を拒まれた者もいた。報じられるところによると、難民の中には警察によってアルカンことジェリコ・ラジュナトヴィッチの民兵組織(東スラヴォニアのエルドゥトに拠点を置くセルビア義勇親衛隊)に送られ、アルカンの部下たちによって虐待を受けたといわれている。ここで難民たちは、「クライナを敵に明け渡した」ことを理由に公然と殴られたり辱めを受けたりした[46]。
大規模な難民の流入によってセルビアでの民族的緊張が高まり、ヴォイヴォディナで一定の人口規模を持つクロアチア人少数民族が嫌がらせを受けた。ヴォイヴォディナのリベラルな反体制派やクロアチア政府のベオグラード代表部は、800人から1,000人程度のクロアチア人が1995年8月の間に、クライナ難民や地元の過激主義者による追放や脅迫によってヴォイヴォディナを去ったとしている[47][48]
ガーディアンのジョナサン・スティール(Johathan Steele)は、以下のように書いた。
いともすばやく、犠牲者が加害者に転じることに、私は唖然としたのを記憶している。セルビア領に入ってすぐの町ギバラツ(Gibarac)で、私は新たにやってくるセルビア人難民たちを見ていた。難民たちのために避難先を探すのを手伝う地元の関係者たちは、家屋に押し入り、クロアチア人の家族を立ち退かせた[49]
およそ5万人の難民はボスニア・ヘルツェゴビナ領(多くはバニャ・ルカ地方)に留まった。このクライナ難民の追放に対する報復として、難民たちの一部はセルビア人の武装勢力の支援を受け、この地域のクロアチア人やボシュニャク人たちを住居から追い出した。また、非セルビア人市民が殺害されたり行方不明となる事件も、クライナ陥落後、激化した。地元、および地域のセルビア人当局は、特に9月から10月にかけて、地域からのクロアチア人やボシュニャク人の追放を支援した[50]。
スルプスカ共和国政府は、バニャ・ルカ地方からの全てのクロアチア人およびボシュニャク人の追放を命じた。この例外は、従軍可能年齢にある男性のクロアチア人およびボシュニャク人であった[51]。クロアチアによると、嵐作戦後の数週間の間に、1000を超えるクロアチア人の家族が追放され、その多くが報復として虐待を受けたり死亡したりしているとした[52]。非セルビア人市民の殺害はボスニアのバニャ・ルカ、プリイェドル(Prijedor)、ボサンスキ・ノヴィ(Bosanski Novi)、ボサンスキ・ドゥビツァ(Bosanska Dubica)で9月から10月にかけて発生した。これは、嵐作戦によって住む場所を追われたセルビア人たちの生活場所を確保する目的があった。嵐作戦の報復として、特にクロアチア人が標的にされたとも報じられている。国際連合やその他の国際的な監視機関は、非セルビア人市民の殺害やその他の蛮行の事例を収集した。嵐作戦の前には29,000人いたバニャ・ルカのクロアチア人は、わずか3,000人に減少していた[53]。
紛争の全期間を通して、およそ300,000人のクロアチアのセルビア人が故郷を離れ、その多くがその後もクロアチアへは帰還していない。国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、クロアチアに住んでいた難民20万人が故郷に帰還しておらず、そのほぼ全てが民族的にはセルビア人とみられる。多くのクロアチアのセルビア人たちがクロアチアに帰還できないのは、主として彼らがクロアチアに残してきた不動産に対する権利を失ったこと、そして迫害を恐れているためである。クロアチアのセルビア人たちは現在も、雇用やその他経済的・社会的権利において差別的な扱いを受けている。クロアチアのセルビア人に対する暴力や嫌がらせは現在もなお報告されている[54]。クロアチアのセルビア人たちが迫害の恐れ以外で帰還をためらう理由として、クロアチアの警察が秘密の戦犯容疑者リストを作成しているというものがある。クロアチアでは戦争に積極的に加担した者以外に対する恩赦を可決しているが、恩赦の規定は不明瞭であり、セルビア人たちは自分がその恩赦の対象となっているかどうか知ることが出来ない[55][56]。難民の帰還をさらに困難にしているのは、彼らがクロアチアに残してきた不動産は、同様に故郷を失ったクロアチア人やボシュニャク人に与えられ、彼らに使用されていることである。また、クライナ・セルビア人共和国がこの地方を統治していた1991年から1995年の間のクライナ地方は経済的に壊滅状態にあったことも帰還をためらう理由となっている。クロアチアはこの地域を再建するプロジェクトを進めており、1995年以降、経済状態は急上昇したが、それでもいぜんクライナ地方では失業率は高い。
クロアチアの有力なセルビア人政党として独立民主セルビア人党がある。同党はクロアチア政府を支持し、難民帰還を加速させることをその主要目標としている。クロアチア政府は難民の帰還を容易にするための各種の法を成立させている。
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