小関竜也
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来歴
プロ入り前
実家は佐野市内にある佐野ラーメンの有名店「万里」。
国学院栃木高校では、エース投手兼主将兼四番打者を務めた。3年夏の県大会は3回戦で先発完投し、延長12回を14奪三振の力投も敗退[2]。なお、同学年の控え投手は渡辺俊介(後に千葉ロッテマリーンズ)だった。
西武時代
慶應義塾大学への推薦入試を受けて不合格となり[3]、1994年度プロ野球ドラフト会議にて西武ライオンズから2位指名を受けて投手として入団。入団後に打者へ転向。
1996年、10月4日の対近鉄バファローズ25回戦の8回裏に笘篠誠治への代打として一軍初出場を果たすが、同年中の出場はこの1試合のみだった。
1997年も1試合の出場に留まる。
1998年には104試合に出場し、同年のパシフィック・リーグ(パ・リーグ)最優秀新人に選出された(パ・リーグで入団4年目の新人王は小関が初で、2021年時点では唯一)。高卒でプロ入りした野手の受賞は2021年現在までで、パ・リーグでは小関が最後[4]。
1999年は123試合の出場で打率.268、1本塁打、34打点、16盗塁を記録し、初めて規定打席に到達をした。
2002年には自身最高の打率.314を記録。松井稼頭央との不動の一・二番コンビを形成し、リーグ最多の43犠打を記録。自身初のリーグ優勝を経験した。読売ジャイアンツ(巨人)との日本シリーズ第2戦(10月27日、東京ドーム)では、1回表二死満塁で巨人・桑田真澄が二塁へ牽制球をした際、三塁走者だった小関はその隙をついて本塁を狙ったが、返球が早くアウトとなった。このチャンスを逃した西武は巨人打線に打ち込まれ、西武打線は桑田に抑えられ、チームはストレートの4連敗で日本シリーズ優勝を逃した。
2003年は、打率3割は逃したが、5三塁打とリーグ最多の32犠打を記録した。
2004年は赤田将吾や佐藤友亮が台頭したこともあり、レギュラーとして出場できず、90試合の出場に終わった。ただしリーグ優勝を決めたプレーオフ第二ステージの第5戦では、10回表の先頭打者で決勝点の口火を切る二塁打を放った。
2005年は、選手会長に就任し飛躍が期待されたが、開幕スタメンは前年台頭した赤田将吾や佐藤友亮に奪われる。4月2日の試合中に佐藤が負傷し長期離脱(9月に復帰)となったが、自身はそのチャンスを生かせず47試合の出場に終わり、打率.198と低迷した。シーズン終了後に大幅減俸を提示された事もあり、メジャーリーグへの挑戦を申し出た結果、西武は小関を功労者であるとして自由契約とした。
メジャー挑戦
2006年2月8日、守備および送球の良さを買われ、ミルウォーキー・ブルワーズとマイナー契約。メジャー昇格を目指していたが、4月13日に球団のマイナー選手の外国人枠が埋まっていることが判明。その後の交渉も不調で残留は困難と判明。2日後の4月15日、巨人の入団テストを受けて合格。
巨人時代
2006年に、「打者走者以外の塁空過で打者の本塁打が取り消される」というNPB史上初の珍事を演じている(→幻の本塁打一覧)。6月11日に行われたセ・パ交流戦の千葉ロッテマリーンズ戦(千葉マリンスタジアム)の3回表、二死一塁でロッテ・渡辺俊介から李承燁が打球を右翼側外野スタンドに直接叩き込んだが、プレイ再開後にロッテ・今江敏晃が一塁走者だった小関の三塁空過をアピール。これが三塁塁審の西本欣司に受け入れられて小関はアウトになった。既に二死だったため、李の得点は認められず、従って本塁打も取り消された[5]。李には単打が記録された。
この件に関して、後の2009年5月26日に放送された『斉藤一美 うるわしの夜』(文化放送)に出演した際に、本人は「踏んでないわけない。踏まないなら変な感触がある」「フジテレビにはベースを踏んだ映像が残っている」「(その時の審判を)今でも許せない。死ぬまで許せない」「今はインターネットがあるのでいつまでも残ってしまう」「清武英利代表が『小関は踏んだ』ということをアピールしてくれてうれしかった」と語っている。この年の巨人は故障者が続出し、小関も入団後は出場機会があったが、打率.258で本塁打0に終わり、救世主とはならなかった。
なお、小関は西武時代にも1999年6月25日の福岡ダイエーホークス戦でも三塁を空過してアウトになっている。
2007年は若手選手が台頭したこともあり、二軍でも出場機会が得られないまま戦力外通告を受ける。同年の12球団合同トライアウトで2本塁打を打ち、横浜ベイスターズへの入団が決定。石井琢朗は、正式な球団発表の前に小関からの「よろしくお願いします」という旨の電話があったことを自身のブログで明かしている。石井は小関と同郷であり、自主トレを一緒に行うなど親交がある。
横浜時代
2008年は開幕戦に先発出場し、開幕から4試合連続で複数安打(その内1試合は猛打賞)を記録するなど絶好調であったが、5月に入り失速。その後は主に左の代打として起用された。8月半ばに登録を抹消されるとその後の一軍出場はなかった。10月1日に戦力外通告を受ける。守備では無失策を記録し、持ち味は発揮していた。
横浜退団後
2009年は2度目のメジャーリーグ挑戦を目指し、3月にコロラド・ロッキーズのトライアウトを受けるが不合格。4月14日に現役引退を発表。
引退後
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引退後は野球評論家としてJ SPORTSで解説を務めた(ただし、解説者としての初仕事は「NACK5 SUNDAY LIONS」のゲスト解説)。
2011年から2016年は古巣巨人の二軍外野守備走塁コーチ[6]。2017年からは二軍打撃コーチ[7]を務め、2018年をもって退団。
2019年からは西武OBとしてフジテレビTWOとテレ玉の野球解説者に復帰した。
2020年からは西武の一軍外野守備走塁コーチを担当[8]。2022年からはファーム野手総合兼打撃コーチに異動。同年はファーム監督の西口文也が新型コロナ陽性になった関係で、7月14日から25日まで監督代行を務めた。2024年からはファーム野手総合コーチに役職が変更となった[9]。肩書は総合コーチであるが、2023年より三軍の対外試合の際には、小関が監督扱いでベンチ入りしている[10]。
この他にも、古巣埼玉西武ライオンズの社会貢献活動あるいは講演活動に協力し、埼玉県内の小・中学校で自身の経験を基にした講演等を行っている。
- ^ “カントリー・ガールズに西武・小関コーチの長女「巨人戦の始球式で投げたい」”. SANSPO.COM(サンスポ). (2015年3月26日) 2015年3月30日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン社1995年春季号「高校新卒ルーキーくん28人の横顔」ベースボールマガジン社
- ^ “小関MANIAX”. 2015年4月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月3日閲覧。
- ^ パ・リーグ野手の受賞自体、源田壮亮が現れるまでの19年間は小関が最後だった
- ^ 第3アウトが次のような場合には、そのアウトにいたるプレイ中に、走者((3)にあたる場合は後位の走者)が本塁に触れても、得点は記録されない。 (1)(2)省略。(3)前位の走者が塁に触れ損ねてアウトにされたとき。(公認野球規則5.08(a)【例外】)なお、この塁空過が無死または一死で発生していたならば、李の得点と本塁打はそのまま認められる。(同【5.08原注】規則説明)
- ^ 森脇浩司、清水崇行、小関竜也の3氏が二軍コーチに就任
- ^ “巨人 来季1軍コーチングスタッフ発表 二岡2軍コーチら昇格”. スポニチ Sponichi Annex 野球 (2016年10月26日). 2017年5月23日閲覧。
- ^ “西武 来季コーチ陣発表 豊田清一軍投手コーチ、小関竜也一軍外野守備走塁コーチら招へい”. スポニチ Sponichi Annex (2019年10月25日). 2023年10月3日閲覧。
- ^ “【西武】内野守備・走塁コーチは阿部真宏が1軍、黒田哲史が2軍へ配置転換/組閣一覧”. 日刊スポーツ. (2023年10月13日) 2023年10月13日閲覧。
- ^ 2023年5月6日 埼玉西武ライオンズ対JPアセット 試合結果 埼玉西武ライオンズ(2024年3月31日閲覧)
- ^ “【楽天】聖沢が連続無失策パ・タイ記録”. nikkansports.com (2013年5月23日). 2023年10月3日閲覧。
- ^ “【楽天】聖沢が659回無失策のパ新記録 - プロ野球ニュース”. nikkansports.com. (2013年5月25日) 2015年3月30日閲覧。
固有名詞の分類
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