大鵬幸喜 エピソード

大鵬幸喜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 07:18 UTC 版)

エピソード

川湯相撲記念(現:大鵬相撲記念館)にある大鵬幸喜像

取組関連

  • 入幕から横綱昇進までは柏戸に3勝7敗と相性が悪かった。1961年(昭和36年)3月場所では前場所に優勝してヨーロッパ旅行に行っていた柏戸に敗れ、「こんなに稽古しても、ヨーロッパに行ってろくに稽古してない柏戸関に勝てないのか」と泣いて悔しがったという。ゲンをかついで、かしわ(鶏)肉ばかり食べていた時期もあったという。横綱昇進後は両者の力関係が逆転して大鵬が18勝9敗と大きく勝ち越し、通算でも大鵬の21勝16敗となったものの、大鵬自身は引退後も「柏戸さんの出足は最後まで脅威だった」と語り、「生まれ変わったら、今度は柏戸さんのような相撲取りになりたい」とこぼしたことがあった。

取組以外の相撲関連

  • 現役時代、廻しに付けていた下がりの本数が19本であった[49]
  • 大鵬はどこへ行くにも必ず付け人への土産を買い忘れることがなかったといい、ある時は沢山食べて体が大きくなるようにと付け人たちへ寿司折りを買ってきたという[21]
  • 現役時代には野球麻雀を趣味としていた。入幕したばかりの頃は、部屋で草野球が行われれば出場する程度であまり野球に興味はなかったというが、1966年頃になると稽古の合間にキャッチボールをするようになり、野球の腕前はなかなかであったという。麻雀は下手の横好きであり、4人麻雀で1人負けしたこともある[1][2][50]
  • 新入幕の翌年に横綱に昇進した力士は大鵬以前にはなく、2018年(平成30年)現在でも大鵬が唯一である。大鵬の三賞受賞数が3回と少ないのは、あまりにも早く大関・横綱へ昇進したためである。しかし、横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば早期引退以外に道はない。このことを大鵬自身はよく認識しており、横綱昇進が決定した時にも喜びの気持ちは全くなく、むしろ引退する時のことを意識せずにはいられなかったという[注釈 20]
  • 横綱土俵入りは、肘を少し曲げ伸ばししながら掌を返すことが特徴だった。非常にテンポの遅い土俵入りを行っていたことでも知られており、大抵2分余り、現役最終盤の時期にあたる1970年から1971年に至っては3分を超えるまでになった。しかし1963年3月場所後に行われた二子山[注釈 21]の談話で概して「せり上がりに区切りが無く、中段が早すぎる。柏手を打つときに首を振る癖がある。内側に向けて四股を踏むのも良くない」と立て続けに駄目出しされるなど、少なくとも横綱初期においては土俵入りが下手という評判であった[51]
  • 土俵入りについては、横綱昇進直後の静岡県島田市での巡業の際に東から土俵に上がったにもかかわらず、左足で四股を踏んだ後、帰る段に引く足を間違えて逆の西方を向いてしまうという失態を演じており、これも影響して、以後しばらくは土俵入りには相当神経を使い、土俵入りを終えた後は毎回汗びっしょりになっていたという。また、横綱昇進直後の土俵入りは1分10秒程度で終わっており、親しい新聞記者から「早すぎて締まりがない」と指摘されて、以後間合いを持たせるように留意した。その後、土俵入りの時間は次第に長くなっていったが、それでも本人は「引退までギクシャクした感じがあった」と語っている[52]
  • 大鵬の死から7年後、自身もルーツを持つウクライナ出身の獅司大入間川部屋に入門している。

人気力士・横綱として

  • 現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益は、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)まで老人ホーム養護施設テレビを寄贈、翌1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)まで、日本赤十字社に「大鵬号」と命名した血液運搬車を贈った。テレビはNHK文化事業団に36台贈呈。血液運搬車の寄贈台数は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001年(平成13年)まで毎年2台ずつ、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつで、2009年(平成21年)9月に70台目(自身の年齢と同数)の贈呈を終えたところで活動も終えた[25]
  • 若い頃は大変な酒豪で、一日の酒量が一斗(18リットル)に達し、ビールを一升瓶で20本(36リットル)飲んだこともあったという。6連覇をかけていた時期の雑誌『相撲』の記事では「大鵬の兄弟子、熊ヶ谷親方(元幕内海山)はかつて7升の酒を飲み干したと伝えられるが、本格的に腰を据えて飲めば、大鵬の最高記録は7升程度のものではなかろうか」と、大鵬の酒量に関する主張は典拠によって異なる[1][2]。塩辛い物も好きであり、酒のつまみに大ぶりの明太子を2腹も3腹も食べながら飲んだと伝わる。現役時代には同い年の親友(誕生日が9日違い)である王貞治と夜通し飲み明かしたこともあり、酔い潰れた王が一眠りして起きると大鵬が変わらないペースで飲んでいたという。場所の終盤、明け方まで飲んでいて付け人が「横綱、きょうは大関戦ですが」と心配すると「どうしておれが大関とやるのに寝なきゃいけないんだ」と豪語したという[53]。しかしその飲酒量の多さが後に脳卒中などの病気で、健康を害した大きな原因と言われている。
  • 色白の美男だったためか、若い頃の人気は非常に高かった。男性相撲ファンに絶大な支持を誇った柏戸と比べて大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという[注釈 22]。全盛期には大鵬にあやかって「幸喜」と命名された男児が多くいた[注釈 23]。俳優・劇作家・脚本家である三谷幸喜もその一人である。
  • 現役時代、パリの新聞で「グランドフェニックス・タイホー」ともてはやされた。トニー・カーティスからファンレターを貰ったこともある[1][2]
  • 二所ノ関部屋後援会員であったマダムオーナーを務めていた飯倉の「レストラン竜」で提供されていたサーロインステーキを好んで食した。本人曰く「パリやスペインではこんなを食べさせるところはないよ。の質が違うのか知らんが、うまくないねえ。まるで靴の裏底を噛んでるようなものもあったぜ。(中略)一口この肉を食べてみると、ああ日本だなと感じるね、ウッフフ」「でもねえ、外国じゃ注文してから出来上がってくるまで遅いこと遅いこと」とのこと[1][2]
  • 横綱時代の歌のレパートリーはサンタ・ルチアオー・ソレ・ミオエルビス・プレスリーボビー・ダーリンなど[1][2]
  • 大鵬が現役を務めていた頃の二所ノ関部屋は大鵬自身のネームバリューのおかげで隆盛していたのであって、大鵬がいなくなった部屋には魅力がなかったということであろう、と天龍源一郎は衰退に向かって行った二所ノ関部屋を後に振り返ったという。天龍はこれについて「もし大鵬さんが戻ってくれば、弟子の数も大部屋時代に戻り、本流の出羽海にさらに対抗し、大鵬理事長が誕生して一門みんなが潤ったかもしれない。結局、佐賀ノ花さんがたたき上げ、大横綱大鵬さんを生んであれだけ大きくなった部屋を、その大鵬さんが継ぐことができなかった。そこに"悲劇"があったということですよ」と2017年のムックで感想を述べている[54]
  • 国民栄誉賞を授与した当時より首相を務めている安倍晋三は、2013年1月31日に大鵬への国民栄誉賞授与が検討されていることについて、スポーツニッポン本紙などに「圧倒的な存在感で立ち居振る舞いが美しい力士だった。当然、国民栄誉賞に値すると思っている」と述べた。
    • 安倍本人は「巨人、大鵬、卵焼き」の流行語が生まれた1960年代に少年時代を過ごしており、個人的な感情として「卵焼きは好きだったが、巨人も大鵬もアンチだった。“大鵬キラー”と言われた関脇・明武谷は背が高く細くて、私もやせっぽちの子供だったので応援していた」と述懐した一方で「アンチでも大鵬は気になる。大鵬との取組を手に汗を握って応援していた」と明かした[55]

親方として

  • 1982年(昭和57年)、人格者として知られていた大鵬は、「世界人道者賞」を受賞した[25]。この賞は日本では余り知られていないが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞である。
  • 大鵬部屋創設から日が浅かった頃、大鵬はベンツちゃんこの材料の仕入れを行っていた[25]
  • 露鵬の大麻問題では同じく渦中に巻き込まれた北の湖理事長と対応を協議する事態となっていた。最終的には、自分の後継者で娘婿でもある大嶽が責任を問われて相撲協会の委員から平年寄への2階級降格処分を受け、北の湖親方も理事長辞任となった。自身もそれと前後して相撲博物館館長を辞職している。
  • かつては第68代横綱・朝青龍明徳のよき相談役として知られ、相手次第で取り口を変える自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っていた。朝青龍の謹慎問題などで批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもあった。しかし朝青龍は、2005年(平成17年)に7場所連続優勝・年6場所完全制覇・年間最多勝の更新(84勝)の新記録を達成した辺りから、大鵬の元へ相談に来ることが無くなったという[56]。そして結局、朝青龍は度重なるトラブルに責任を取る形で、2010年(平成22年)1月場所後に現役引退せざるを得なくなってしまった。大鵬は引退会見を見て「会見で謝罪なく腹立たしい」と憤慨していた[56]
    • 朝青龍の現役時代のある時、講演での質疑応答で力士の所作やマナーについて質問があったが、朝青龍にこのことを電話すると「いやあ、そんなものは(現役を)辞めるころになったらうまくなりますよ」と朝青龍本人は返事した[56]。これがきっかけで大鵬も朝青龍を見捨てたという[57]
  • 2004年、大鵬部屋は三女の夫であった貴闘力(16代大嶽)が継承し、大嶽部屋と改称したが、部屋の運営は一緒にやっていたようなものであったため、よくぶつかっていたという[58]
  • 貴乃花が二所ノ関一門の反対を押し切って強行出馬し初当選を果たしたいわゆる「貴の乱」では、大きな役割を果たした。「二所ノ関一門が(貴乃花親方を)破門にすると言ってきた。私に言わせれば『何を言ってるんだ』と。自分のことだけを考えてやるのはダメなんだ。協会の将来とか全体を、いろんなことを考えていかないといけない」として出馬に「GOサイン」を出した。理事選の夜、貴乃花は自らのグループの親方を率いて大鵬宅を訪れ、当選を報告した [59]
  • 亡くなるまで日刊スポーツの相撲担当評論家を務め、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載していた(偶数日目は高砂浦五郎の「大ちゃん 大分析」)。
  • 二所ノ関部屋消滅問題では「時代の流れでは致し方無いだろうが、今一度部屋再興を望みたい」と談話を発表した[60]

故郷北海道関連

  • 少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉温泉街には、1984年(昭和59年)に開館した大鵬相撲記念館(設立当初の名称は弟子屈町川湯相撲記念館)があり、大鵬が実際に使用した化粧廻し優勝トロフィーなどのゆかりの資料が展示されている。この他、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから最晩年に至るまでの歩みを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもある。記念館の前には、大鵬の銅像も建っている。
  • 北海道出身のためかスズランが好きであり、自身の元に贈られてきたスズランの花は、花の寿命が来るまで可愛がった[1][2]。また、自身の化粧回しにもスズランの花がデザインされていた。
  • 大鵬が新横綱だった1961年11月場所から北勝海が引退した1992年5月場所(場所前に引退)まで北海道出身の横綱が番付から途絶えることはなかった。

プライベート

  • 横綱昇進の2年後あたりから、自身や部屋の後援会の関係者から頻繁に見合い話を持ちかけられていたが、本人は「まだまだやらねばならぬことや勉強がいくらもある」という理由で、結婚は昇進から5年後の26歳の誕生日を迎えてからと考えていた[61]。実際に挙式は27歳の誕生日の翌日に行われた[62]
  • なお、この過程で師匠・二所ノ関からも縁談を持ち掛けられ、しかもその際に「結婚を承諾するなら将来は二所ノ関部屋の後継者として考えてもよい」と暗に漏らされていながら、断ったということを著書で明かしている[63]。後年、二所ノ関の死去後に後継を巡る争いが起きた際に大鵬も名乗りを上げながら、結局実現しなかったのはこのことも影響していると言える。
  • 1994年に三女と貴闘力が結婚している。
    • 三女の証言によると、大鵬には娘たちの誰かに力士と結婚して部屋を継いでもらいたいという考えは無かった。三女の意志でそうなったことを喜んでいたが、三女との交際が分かったときから貴闘力のギャンブル癖を心配していた[64]。大鵬は「頼られると全部受け入れてしまう人」で、貴闘力が賭博で作った借金を何度も肩代わりしていたという。貴闘力は大鵬に誓ってギャンブルをやめたものの、大鵬に隠れて借金をして公営ギャンブルをするようになり、野球賭博にも手を出したことから2010年7月に相撲協会を解雇となった。4人の孫が後継者として入門することを夢見て、大鵬が大嶽部屋の改装に着手していた矢先のことであった[65]
    • 大鵬は貴闘力に離縁を申し渡し、三女と貴闘力は離婚。その時「お前は何も悪くない。堂々としてなさい」と三女に言い、以降も度々言い聞かせた。三女は父親を裏切った罪悪感から大鵬と離れて暮らすようになったが、その後も大鵬は二人を心配し「いつでも帰っておいで」と言っており[66]、三女が最期に受け取った言葉は「ずっと心配していたんだ」であったという[64]。貴闘力は2013年の大鵬の最期に立ち会っているが[67]、葬儀への参列を許されなかった[65][68]
    • 4人の息子を全て力士にする方針で長男に相撲を強制した貴闘力とは違い、大鵬は「そんな風にさせなくていいから。好きなことをさせればいい」と常々言っていた。自分の意志で、長男はプロレスラーの道に、次男・三男・四男は相撲の道に進んでいる。大鵬が死去した際に次男(納谷幸林)は中学生で、大鵬が孫たちに相撲を指導する機会は無かった[58]
  • 2005年6月22日、本人により「大鵬」の商標登録の出願がなされ、登録となった[69]。大鵬の遺族は有限会社大鵬企画という会社を通じ、現在も大鵬の公式サイトの運営・大鵬のオリジナルグッズ販売や各種イベント、大嶽部屋のサポートを行っている[70]

注釈

  1. ^ a b c 大鵬自身は現役引退直後に刊行された「大鵬自伝」(ベースボールマガジン社版)で父親について「幼い時に亡くなった」、「朧ろにかすんだ霧の中にかくれていて、その輪郭はつかみようもない」、「牧場を経営していた」、「正直に言って父と呼ぶべき人を知らないのです」(いずれもP40)と述べており、1981年に再版されたほるぶ新書版でも、同じ記述になっている。
  2. ^ 北海道へ引き上げる際に稚内で途中下船したのは、大鵬が記した「私の履歴書」によると母親の事情ではなく、当時子供だった大鵬が「降りたい、降りたい」と愚図ったために仕方なく下船し、鉄道で目的地に向かったと述べている。大鵬自身も「小樽まで乗船していたら今の自分はなかった」と語っている。
  3. ^ 大鵬は引退後、「おおづつ」と読ませる巨砲丈士を育てることになる。
  4. ^ 2019年現在の最年少記録は関脇・大関・初優勝とも貴乃花光司が保持。
  5. ^ 後に佐田の山晋松が3場所目で12勝3敗の成績で初優勝を記録し、2019年現在も単独で保持しているが、対戦内容から問題になった。
  6. ^ 2019年現在の記録は北の湖敏満の21歳2ヶ月。
  7. ^ 「大相撲」(読売新聞社刊)1968年7月号では「幕内全力士が考える大相撲再建案」が特集され、力士たちが「相撲人気が落ち目になっていると思うが、力士としてどのようにしたらいいと考えているか」という質問に答えている。
  8. ^ もともと左肘は1965年(昭和40年)11月場所5日目の栃王山裕規戦で痛めていたが、この年に2度にわたって左肘を負傷したことが致命傷となり、本人は「肘が『く』の字に曲がったまま、伸ばすことも折り曲げることもできなくなり、相撲に工夫が必要になった」と語っている。(「大鵬自伝」P194-198)
  9. ^ 取り直し制度導入後では2位(当時)。この後に千代の富士貢が53連勝、白鵬翔が63連勝を記録して2012年(平成24年)11月現在では歴代4位。
  10. ^ しかしこの場所は大鵬以外の横綱・大関陣が全員8勝あるいは9勝に留まっており、場所後の『読売大相撲』には「史上最低の落第場所」「なんとかしてください」という総評が寄せられる始末であった。
  11. ^ 北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬の4勝2敗で勝ち越している。
  12. ^ 福の花は柏戸の現役引退当日(1969年7月場所4日目)の対戦相手にもなっている。
  13. ^ 当時、玉の海は虫垂炎にかかっていたが、責任感の強い玉の海は大鵬の引退相撲の式が終了するまで入院を拒んでいたため症状が悪化し、手遅れの状態になってしまったと言われる。そのため、結果として大鵬の引退相撲が玉の海の生命を縮める一因になってしまったとも言える。
  14. ^ これによって車椅子移動が基本となったために勝負審判が務められず、挨拶で土俵に上がるのにも支障が生じる。大鵬の同世代では佐田の山と豊山勝男が理事長を務めている。
  15. ^ リハビリは廊下を這うことから始め、それを見た者達から好奇や憐みの視線を向けられたという。:大鵬さん 引退後は不遇 脳梗塞、大麻事件、娘婿解雇 幕内優勝力士出せず Sponichi Annex 2013年1月20日 06:00
  16. ^ この退任により同じ二所ノ関一門の枠で理事職を引き継いだのは、自身の現役最後の対戦相手でもあり、当時部屋の全盛を誇っていた11代二子山だった。
  17. ^ 大鵬がアンチ巨人だったにも関わらず王と親しかったのは、誕生日が近いだけでなく、王が巨人の選手の中でも並外れた努力家で大鵬と共通するスポーツ精神の持ち主であったこと、また父親が外国人という共通点があった(王の父は中国人であった)ことも理由として挙げられる。ちなみに、王も大鵬と同じく若い頃はかなりの酒豪であった。
  18. ^ 両腕を交差して相手の片腕を挟むように差すといった比較的珍しい方のもろ差し。
  19. ^ 全盛期の琴櫻傑將が放ったぶちかましを稽古場で受けられるのは大鵬ただ一人だったと言われており、他の力士は琴櫻のぶちかましを恐れて胸を出すのを皆避けたという。これは大鵬の特異体質を表わす逸話である。
  20. ^ 大鵬よりも以前、栃錦清隆が横綱昇進を決めた日に師匠の栃木山守也から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された話があり、大鵬もこの話を聞いて深く感じ入る所があったと言える。また、栃錦のライバルであった若乃花幹士も、大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱が負け越せば引退以外に道はないため、横綱昇進が決まった時には推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという。
  21. ^ 大鵬の土俵入りの指導は二子山(初代若乃花、大鵬の昇進当時は現役)が行った。
  22. ^ 同様のエピソードに、ラジオドラマ「君の名は」がある。
  23. ^ その世代の有名人の名を子供につけるという例は多く、全国高等学校野球選手権大会で人気を博した荒木大輔ヤクルトスワローズ)に因んで名づけられた松坂大輔ボストン・レッドソックス)などの例がある。
  24. ^ 柏戸明武谷と優勝決定戦
  25. ^ a b 佐田の山と優勝決定戦
  26. ^ 本態性高血圧により5日目から途中休場
  27. ^ 左足首関節内骨折により千秋楽不戦敗
  28. ^ 柏戸と優勝決定戦
  29. ^ 左肘関節挫傷・左上腕筋肘頭附着部離断により3日目から途中休場
  30. ^ 左肘関節剥離骨折により13日目から途中休場
  31. ^ インフルエンザ性気管支炎・本態性高血圧により4日目から途中休場
  32. ^ 急性気管支炎・扁桃腺炎により5日目から途中休場
  33. ^ 左膝側副靱帯損傷により10日目から途中休場
  34. ^ 右足首関節捻挫により4日目から途中休場
  35. ^ a b 玉の海と優勝決定戦

出典

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  3. ^ なお、「恐らく近代以降の(そして戦後に限れば間違いなく)最も偉大な力士」と評されている(ジャパンタイムズの記事Whether crisis or not, sumo's show must go on
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  67. ^ 元娘婿・貴闘力の鎌苅氏は涙 大鵬さんの死に「懐が深かった」 - スポニチ Sponichi Annex スポーツ”. スポニチ Sponichi Annex(2013年1月20日). 2021年6月23日閲覧。
  68. ^ 元関脇・貴闘力氏招きギャンブル依存症対策を考えるシンポジウム開催”. www.goraku-sangyo.com(2015年11月30日). 娯楽産業協会. 2020年12月14日閲覧。
  69. ^ 『特技懇281号 寄稿 力士の四股名と商標権 ー著名性の客観的な判断基準に関する考察ー 宮川元』特許庁技術懇話会、2016年5月13日、74-82頁。 
  70. ^ 第四十八代横綱 大鵬 オフィシャルサイト”. www.taiho-yokozuna.com. 2021年9月15日閲覧。


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