古賀誠史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/03 15:04 UTC 版)
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名前 | ||||||
本名 | 古賀 誠史 | |||||
カタカナ | コガ セイジ | |||||
ラテン文字 | KOGA Seiji | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1979年8月7日(43歳) | |||||
出身地 | 福岡県大川市 | |||||
身長 | 171cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 左 | |||||
ユース | ||||||
1995-1997 | 東福岡高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1998-2001 | 横浜M/横浜FM | 9 | (0) | |||
2002-2007 | アビスパ福岡 | 134 | (23) | |||
2007-2009 | ヴィッセル神戸 | 34 | (3) | |||
2010-2012 | SC相模原 | |||||
代表歴 | ||||||
1998 | 日本 U-19 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
1996年全日本ユースサッカー選手権準優勝(2年生)。1997年インターハイ優勝。1997年全日本ユースサッカー選手権優勝。第76回全国高校サッカー選手権大会の優勝メンバー。(東福岡高校三冠の一員)。
AFCユース選手権1998の日本代表としても活躍した。フィリップ・トルシエ監督就任後のユース代表にも選ばれていたが、1999 FIFAワールドユース選手権のメンバーには選ばれなかった。
高校卒業後、横浜マリノス(当時)に入団。1年目から出場機会は得ていたものの、守備に難があったことや負傷もあってレギュラー定着はならなかった。
2002年にJ2に降格したアビスパ福岡にレンタル移籍、翌年に完全移籍を果たした。福岡では主に左サイドハーフのレギュラーとして活躍し、左サイドバックを務めるアレックスと絶妙なコンビネーションを発揮。チャンスメーカーとしてチームに欠かせない存在となっていた。2005年のJ1復帰の原動力ともなった。
2007年、再び降格した福岡に残留したものの出場機会が減り、8月下旬よりヴィッセル神戸へレンタル移籍となった。同年12月に神戸へ完全移籍[1]。。
2008年は5月の中断前まではレギュラーだったが、その後は怪我に悩まされ1年以上リーグ戦に出場できなかった。2009年7月、和田昌裕監督にスタメンに抜擢されて以降は再び左サイドに定着しつつあったが、監督交代を繰り替えしたチームの中で上手く噛み合いきれず、12月2日に戦力外通告が発表された。
2010年、5月末に神奈川県社会人サッカーリーグ1部・SC相模原との契約が発表された。
2012年、SC相模原を退団すると同時に現役引退を発表。
現役引退後は指導者となり南葛SC Fukuoka(福岡県大川市)のコーチを経て、2016年よりアビスパ福岡U-15コーチに就任した[2]。
所属クラブ
- 大川市立大川小学校[1]
- 大川市立大川中学校[1]
- 東福岡高校[1]
- 1998年 - 2001年 横浜マリノス/横浜F・マリノス
- 2002年 - 2007年8月 アビスパ福岡
- 2007年8月 - 2009年 ヴィッセル神戸
- 2010年5月 - 2012年 SC相模原
- ^ a b c d “アビスパ福岡よりMF古賀誠史選手、完全移籍加入決定” (プレスリリース), ヴィッセル神戸, (2007年12月16日) 2016年11月10日閲覧。
- ^ “アカデミー新体制のお知らせ”. アビスパ福岡 (2016年1月12日). 2016年11月10日閲覧。
固有名詞の分類
日本のサッカー選手 |
吉田眞紀人 諏訪園一吉 古賀誠史 中濱雅之 中後雅喜 |
アビスパ福岡の選手 |
太田恵介 平島崇 古賀誠史 フリオ・エルナン・ロッシ 水筑優文 |
ヴィッセル神戸の選手 |
嘉味田隼 エジミウソン・アウベス 古賀誠史 チョウ貴裁 北本久仁衛 |
横浜F・マリノスの選手 |
マルケス・バチスタ・デ・アブレウ 田代真一 古賀誠史 小椋祥平 田中隼磨 |
横浜マリノスの選手 |
フリオ・サリナス エバートン・ノゲイラ 古賀誠史 財前恵一 寺川能人 |
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