反党グループ事件 事件の経緯

反党グループ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 08:38 UTC 版)

事件の経緯

1953年3月、それまでソ連において絶対権力を振るってきたヨシフ・スターリンが死去すると、共産党はゲオルギー・マレンコフ首相、ラヴレンチー・ベリヤ第一副首相兼内相ヴャチェスラフ・モロトフ外相、ラーザリ・カガノーヴィチ副首相、クリメント・ヴォロシーロフ最高会議幹部会議長、ニキータ・フルシチョフ中央委員会書記(後に中央委員会第一書記)、ニコライ・ブルガーニン国防相らの集団指導体制に変更された。彼らは党の最高意思決定機関である中央委員会のうち、さらに高位の幹部層から構成される幹部会のメンバーであった。

初めマレンコフがベリヤと組んで権勢を振るったが、次第に対立し、代わってフルシチョフと組んだ。しかし6月にベリヤが逮捕、処刑された後はフルシチョフが党内に影響力を拡大してゆく。フルシチョフは1955年2月にマレンコフを解任、旧知のブルガーニンを首相に据えた。さらに1956年2月、マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチの反対にもかかわらず、第20回党大会において反スターリン演説をおこなうなど、徐々に専権の度合いを深め、同僚たちとの対立を激化させていった。

幹部会における解任動議

1957年6月、ついに反フルシチョフ派は行動に出た。幹部会を急遽招集し、フルシチョフを解任する動議を提出したのである。幹部会員11名の内、7人(マレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ、ブルガーニン、ヴォロシーロフ、ペルヴーヒン、サブーロフ)が賛成、4人(フルシチョフ、ミコヤンスースロフキリチェンコ)が反対。動議は可決され、フルシチョフは失脚したかに見えた。

しかしフルシチョフは、第一書記たる自分は中央委員会によって選出された以上、解任できるのも中央委員会のみであると主張し、時間を稼いだ。この間に、ゲオルギー・ジューコフ国防相(幹部会員候補)とイワン・セーロフKGB議長の協力を取り付け、反フルシチョフ派の工作が及ぶ前に各地の中央委員を急ぎモスクワへと集めた。こうして、中央委員会総会の開催が決定され、フルシチョフの解任は、総会に持ち越されたのである。

中央委員会総会

党中央委員会総会においてマレンコフ、モロトフ、カガノーヴィチ等は、従来のフルシチョフの内外政策を批判した。しかし、すでにフルシチョフの息がかかっていた中央委員の大多数はフルシチョフを支持し、逆に反対派の行為を厳しく批判した。この結果、反対派は自己批判をするハメになり、まとめて「反党グループ」とされ、党役職を解任された。




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