全日本プロレス協会
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関係者
来日外国人選手
全日本プロレス協会の活動期は日本におけるプロレス興行の黎明期ということもあり、同団体と海外のプロレス団体との間に恒常的な招聘ルートは確立されていなかった。そのため、参戦した外国人選手について当時のパンフレット、または後年のプロレス雑誌における情報などを参照する限り、そのほとんどが駐留米軍人か、無名の格闘技経験者と考えられており、その中には単なる「力自慢の素人」も含まれる可能性が指摘されている(国際プロレス団の参戦外国人選手も同様)[7]。ここでは、プロレス業界において現在でも知られている選手についてのみ記す。
- P・Y・チャン
- アメリカではトージョー・ヤマモトとして知られる悪役レスラー。マネージャー、ブッカーとしても活動。上田馬之助、大仁田厚らの海外修行時にもマネージャーを務めた。
- キラー・ユセフ(キラー・ユシフ、キラー・マイク・ユシフ)
- のちのユセフ・トルコ。日本プロレス、新日本プロレスに参加、レフェリーを務めた。後年、暴露本を出版し業界関係者の不興を買う。浜田幸一の秘書を務めた時期もある。俳優としても知られ、実兄にこれも俳優のオスマン・ユセフ。
エピソード
- NHK大阪放送局(JOBK-TV)が、その試験放送期間に全日本プロレス協会の試合を放送したことがある。NHK大阪の実験放送期間は1951年6月より1954年2月末日までの長期に亘る(テレビ放送技術そのものの実験期間と重なるため)が、その末期である1954年2月6日に行われた興行を、関西・東海地区に向けて放送している。一時期「日本初のプロレス中継」と言われた、力道山・木村政彦 対 シャープ兄弟の一戦をNHK・日本テレビが共同で放送したのは同年2月19日であり、試験放送を含めた場合、全日本プロレス協会の試合が日本初のテレビによるプロレス放送となる。なお、試験放送期間中の番組編成については、当時のテレビ放送予定表には記述を確認できるものもあるが、NHKの社史などには正規の記録が残されていない。
- 大阪テレビ放送株式会社(のちに朝日放送に合併)が、本放送業務開始前のサービス放送期間(1956年11月1日から30日)中に、全日本プロレス協会の興行を放送したことがある。
- 放映時間はサービス放送期間最終日(11月30日)の20時45分から22時15分までの90分間。内容は「ヘビー級選手権挑戦者決定戦」と銘打たれた東富士対山口利夫戦(於・大阪府立体育会館)であり、特別レフェリーとして力道山、解説に阿部修が参加している。
- この試合は先述の「ウエート別統一日本選手権大会」(1956年10月24日)におけるヘビー級挑戦者決定試合が引き分けに終わったため、その再試合として行われたものである。
- 1956年秋の時点では、全日本プロレス協会は事実上の解散状態にあったと考えられており、10月の本大会では「山口道場」として参戦している。本大会は東京での開催(両国の国際スタジアム)でありながら、決勝再試合が大阪で開催されたこと、大阪テレビ放送では団体名を全日本プロレス協会として放送されたことなどから、すでに興行能力を失って解散状態の山口らに、最後に花を持たせたのではないかという指摘がある。
- 試合結果は東富士(日本プロレス)の勝利となり、大会規定の3つの階級(ライトヘビー、ジュニアヘビー、ヘビー)を日本プロレスの選手が独占することとなった。主力選手が敗北した他団体はその後消滅しており、この選手権大会をもって力道山が日本のプロレス界を統一したと見ることもできる。
参考文献
- 菊池孝 『ザ・キング・オブ・プロレス』 小学館、1995年。
- 田澤拓也 『ムスリム・ニッポン』 小学館、1998年。
- 岡村正史編著 『力道山と日本人』 青弓社、2002年。
- ミスター高橋 『プロレス 至近距離の真実』 講談社+α文庫、2002年。
- 門馬忠雄 『日本縦断プロレスラー列伝』 エンターブレイン、2002年。
- 「来日外人レスラー名鑑(上)」 『ゴング』、1968年10月号、日本スポーツ出版社、1968年。
- 「来日外人レスラー名鑑(下)」 『ゴング』、1968年11月号、日本スポーツ出版社、1968年。
- 「来日外人レスラー名鑑」 『別冊ゴング』、1970年6月号、日本スポーツ出版社、1970年。
- 「プロレスラー 過激なるロマンの戦士」 『プロレス』1982年9月号増刊、ベースボール・マガジン社、1982年。
- ジョー樋口『プロレスのほんとの楽しさ』 ベースボール・マガジン社、1983年。
- 『日本プロレス50年史』 日本スポーツ出版社、2000年。
- 岡村正史 「力道山からプロレスへ」、ジャーナリスト・ネット内コンテンツ。
- 「大阪テレビ放送のサービス放送」 Radiofly、2006年。(「アジア放送研究会」月報掲載資料(2006年)の編集転載)
- ISIS本座「まぼろしのテレビ局(10)プロレスと前夜祭」重量別日本選手権ヘビー級決勝戦再試合のテレビ中継について
- ^ 後年、ジャイアント馬場を中心として発足した全日本プロ・レスリング株式会社が人気団体となったため、「全日本プロレス、全日本、全日」と略した場合は通常そちらを指す。全日本プロレス協会を簡素に表記する際は「旧全日本プロレス、旧全日本、旧全日」と「旧」を付ける場合があるが、新・旧で差別化した場合でも、オールジャパン・プロレスリング株式会社を「新全日本」などと表記することはない。
- ^ 1928年に三宅多留次(三宅タロー)が、1939年に庄司彦雄がそれぞれプロ・レスリング興行を行うが失敗。持続的なものではなく、これらは「前史」として扱われる場合が多い。第二次世界大戦後の1951年に朝鮮戦争在日国連軍慰問大会として興行が行われており、これも持続的な興行ではなかったが、同大会は遠藤幸吉や力道山が参加し、その後のプロレス団体設立のきっかけになったとして、この大会から日本のプロレス史を開始する場合もある。
- ^ 『Gスピリッツ』 Vol.26(辰巳出版)より
- ^ 資料によって団体名に「全日本プロレス協会」「山口道場」と一定しない。
- ^ 資料により、解散時期に違いがある。菊池孝は「57年9月」、岡村正史らの研究では、同様に1957年を解散年としている。門馬忠雄の著書中では、1956年から1958年の間で記述が混乱しており一定しない。
- ^ 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著 新潮社刊 p600
- ^ 『Gスピリッツ 』Vol.22、24頁
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