伴繁清 伴繁清の概要

伴繁清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 14:28 UTC 版)

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伴繁清 / 武田繁清
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文10年(1541年)?
墓所 広島市安佐南区沼田町伴「長福寺跡」
官位 下野守
主君 武田元繁光和
氏族 清和源氏義光武田氏庶流伴氏
信重(光広)、香川光景正室
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略歴

永正14年(1517年)の有田中井手の戦いでは、武田元繁配下として出陣し、品川信定らと有田城包囲軍に加わる。しかし、突出した熊谷元直に引き続き、毛利元就によって総大将・武田元繁が又打川で討死するに及び、撤退した。その後は元繁の遺児・光和を支えて大内氏やその傘下の毛利氏と対抗する。

天文2年(1533年)、安芸武田氏と家臣であった熊谷氏が対立。光和は熊谷信直討伐を企てて、繁清は総大将として香川光景己斐直之、山田重任、温科家行らを従え、三入高松城下へ出陣、横川表の戦いとなる。この戦いでは少数の熊谷勢が武田勢を圧倒。繁清も負傷して退却した。

天文10年(1541年)、吉田郡山城の戦い出雲国の尼子詮久(後の尼子晴久)率いる尼子軍が敗れて撤退すると、安芸武田氏の居城・佐東銀山城から当主・武田信実が尼子方の援軍(牛尾幸清ら)と共に出雲に逃亡、実質安芸武田氏は滅亡した。佐東銀山城では武田家臣らが信重を擁立し、繁清は居城の伴城に籠るも、同年(翌年説もある)に毛利氏らの攻撃を受けて両城は落城、信重は自害(佐東銀山城の戦い)、繁清は討死した。

滅亡時に繁清の孫(信重の子息)が伴城から脱出するが、この遺児が成長して安国寺恵瓊と名乗る事となる。

出典

  • 祇園町史



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