仮名手本忠臣蔵 十段目・発足の櫛笄

仮名手本忠臣蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 03:03 UTC 版)

十段目・発足の櫛笄

あらすじ(十段目)

人形まわしの段)ここは摂津堺にある廻船問屋の天河屋である。店は繁盛しその暮らし向きは豊かであったが、今この家にいるのは主人の天河屋義平とその息子の四つになるよし松、それと丁稚の伊吾八の三人。ほかの奉公人は義平が理由をつけて辞めさせてしまい、さらに義平は自分の女房さえも実家に帰してしまっているのだった。そのわけは、もと塩冶家の用向きを勤めていた義平が高師直を討たんとする大星由良助たちに味方し、そのための用意を手伝っているからで、この秘密を知られないための用心である。伊吾八は幼いよし松の機嫌をとるため、人形をもてあそびながらあやしている。

時もすでに黄昏時、大星力弥と原郷右衛門が天河屋を訪ねる。大星たちは明日にも出立して鎌倉に向かうことになっていた。義平は、大星たちが討入りに使う武器や防具類は、すでに船などで送る手はずになっていることをふたりに報告した。これを聞いた力弥は「天河屋の義平は、武士も及ばぬ男気な者」と言い、由良助にも知らせて安堵させようとふたりは店を去った。

そこへ入れ違いに現れたのは、義平にとっては舅の大田了竹である。了竹は、もと斧九太夫抱えの医者であった。その了竹のところに女房である園(その)を義平は預けていたが、了竹は理屈をつけて娘の園を離縁しろという。義平はなにかあるなとは思いながらも、園への離縁状を書いて了竹に渡した。なにか胡乱なことをしているらしい義平よりも、娘にはもっと身分のよい男のもとに嫁入りさせるつもりだと、なおも憎まれ口を叩く了竹を義平は蹴飛ばして店から追い出す。

「忠臣蔵 十段目」 由良助たちのために武器防具を手配する天河屋義平の店に、捕り手が踏み込もうとするが…。広重画。

天河屋の段)夜になった。大勢の捕手が現われ店に踏み込み、義平を捕らえようとする。「コハ何故」という義平に対し、塩冶判官の家来大星由良助に頼まれ武器防具を鎌倉に送ろうとしたことが露見したので、義平を急ぎ捕らえに来たのだという。「これは思ひもよらぬお咎め、左様の覚えいささかなし」と言おうとする義平に捕り手たちは「ヤアぬかすまい、争はれぬ証拠有り」と、荷物を持ち込んだ。見ればそれは、義平が大星たちのために送る荷を入れた長持で、中には武具防具が入っている。そのまだ菰に巻かれて鍵のかかった長持を切り開こうとするのを見て義平は捕り手たちを蹴飛ばし、長持の上にどっかと座った。

これはさる大名家の奥方が使うわけありの道具が入っている、それを開けて見せてはそのお家の名が出て迷惑の掛かる事と、義平は長持を開けさせることを拒む。それを見た捕り手の一人が一間の内に駆け入り、義平の子のよし松を引き出した。「有りやうにいへばよし、言はぬと忽ちせがれが身の上、コリャ是を見よ」と、刀を抜いてよし松の喉もとに差しつけた。義平はこれを見てさすがにはっとしたが、顔色は変えずに次のように言った。「女わらべを責める様に、人質取っての御詮議。天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さぬ…」

だが捕り手たちもそれに退くことなく、「白状せぬと一寸試し、一分刻みに刻むがなんと」というが義平も「オオ面白い刻まりょう」と、ついには捕り手たちよりわが子をもぎ取って、自ら絞め殺そうという勢いである。だがそこへ、「ヤレ聊爾せまい義平殿」という声とともに、なんと長持の中から現れたのは由良助であった。

じつは捕手は大鷲文吾や矢間重太郎をはじめとする判官の家臣たちで、由良助は義平の心を試したのだと謝った上で、「武士も及ばぬ御所存、百万騎の強敵は防ぐとも、左程に性根は据はらぬもの」と義平を褒め称えるのであった。捕り手に化けていた人々も「無骨の段まっぴら」と、畳に頭を擦り付けるようにして義平に頭を下げる。やがて由良助はこの場を立とうとするが、義平は目出度い旅立ちに手打ちの蕎麦を差し上げたいというので、由良助は「手打ち」とは縁起がよいとその馳走に与ることにし、義平に案内されてみな奥へと入った。

そのあと、ひとりの女が提灯を持って、天河屋の戸口にまで来る。義平の女房の園である。鍵がかかっているので伊吾を呼ぶとやってくる。園がわが子よし松の様子を案じて伊吾に尋ねていると、義平が来て伊吾を奥へとやり、再び戸口に鍵をする。「コレ旦那殿、言ふ事があるここあけて」「イヤ聞く事もなし」と義平は聞く耳を持たない。義平は園の親の了竹が斧九太夫に繋がる悪人なので、園とはいったん縁を切る心であった。だが園は戸の隙間から、最前了竹が義平に書かせた離縁状を投げ入れた。了竹からこの離縁状を盗みこっそり抜け出して来た、了竹とは親子の縁を切るつもりだと園はいう。義平も、まだ幼子で母を慕うよし松のことを思うと不憫ではあったが、それでも了竹に渡したはずの離縁状を内緒で手にしては「親の赦さぬ不義の咎」、筋が通らないから持って帰れと離縁状を返し、戸口もしっかりと閉めてしまった。

ひとり表に残された園は、「咎もない身を去るのみか、我が子にまで逢はさぬは、あんまりむごい胴欲な」と、その場で嘆き伏してしまう。やがて、もうこうなっては親了竹のもとにも戻れない、自害して果てようとその場を立ち駆け出そうとした。するとそこへ、覆面をした大男が現われ園をひっ捕らえて髷を切り、園が髪に挿していた櫛や、また懐のものまで奪って逃げ去った。盗られたのは離縁状である。髪を切って離縁状まで奪ってゆくとはなんということか、いっそ殺してと園は泣き叫び、義平もこの表の様子に気付き驚いて飛び出そうとしたがそれを堪え、ためらいつつ門口にとどまる。

そこへ奥より由良助たちが出てきて、義平に暇乞いを述べ、出立しようとする。このとき由良助は世話になったお礼にと、白扇に載せたなにかの包み物を義平に贈ろうとしたが、義平はこれを金包みだと思い怒る。自分は礼が欲しくて世話をしたのではない、義心からのことであるという義平、しかし由良助は「寸志ばかり」のことと言い残し、そのまま表を出る。義平はいよいよ腹を立て、贈られた包み物を蹴飛ばした。するとその中から飛び出したのは金子にあらで、最前に園の頭から切った髪と櫛笄、そして離縁状。それらを表から見た園はびっくりして駆け寄る。義平も驚きつつ、さてはさっき園の髪を切ったのは由良助たちだったのだと気付く。それは由良助が大鷲文吾にやらせたことだった。

園の髪を切ったのは「いかな親でも尼法師を、嫁らそうとも言ふまい」、すなわち尼であれば、同じ屋根の下に暮らしていても夫婦とはいえないから、これで了竹に対しては申し訳が立つだろう。そして髪はいずれ伸びるから、その櫛笄が髪に挿せるようになったら改めて夫婦として縁を結べばよい。これが世話になった義平への返礼であった。義平は園とともに由良助に感謝する。そしてさらに由良助は、「兼ねて夜討ちと存ずれば、敵中へ入り込む時、貴殿の家名の天河屋を直ぐに夜討ちの合言葉」として、「天」と呼べば「河」と答えるよう定め、由良助たちは天河屋を出立するのであった。

⇒(十一段目あらすじ

解説(十段目)

「天河屋義平は男でござる」の名科白で有名なのがこの十段目であるが、歌舞伎では天保以降幕末になるとあまり上演されなくなり、さらに戦前まではまだ上演の機会もあったが、現在ではほとんど上演されることがない。八代目坂東三津五郎は、この十段目が上演されなくなったのは幕末の世情不安から、その上演を憚る向きがあったのではないかと述べている。戦後も二代目市川猿之助、八代目三津五郎、昭和61年(1986年)12月国立劇場の通しで五代目中村富十郎が、平成22年(2010年)1月大阪松竹座の通しで五代目片岡我當が勤めたくらいである。ほとんど上演されないので、型らしい型も残っていない。

この十段目については、「作として低調」「愚作」といわれ評判が悪い。役者のほうでも、義平の心をしかも子供を枷にしてわざわざ試し、そのあと長持の中から出てくる由良助が、これでは演じていて気分が悪いと散々である。ゆえに由良助ではなく不破数右衛門をその代りとして出したこともあった。しかし寛延2年6月に中村座で上演されたときには二代目市川團十郎が義平を勤めており、しかも團十郎はこのとき義平の役ひとつだけであった。また『古今いろは評林』においても義平について、「立者の勤めし役也…海老蔵(二代目團十郎)仕内は各別なり」と記し、後半の女房の園とのやりとりをひとつの見せ場としていたことがうかがえる。

斧九太夫は師直に繋がる人物であり、その九太夫の掛り付けの医者だったのが義平の舅大田了竹である。九太夫は七段目の時点で死んだと見られるが、了竹はいまだ師直と繋がっている可能性があった。そこで義平は自分の女房の園から討入りの秘密が漏れぬよう、いったん自分のそばから園を遠ざけていたのである。そして案の定、離縁状を書いて渡したとき了竹は次のようにいう。

「聞けばこの間より浪人共が入り込みひそめくより、園めに問へど知らぬとぬかす。何仕出かそうも知れぬ婿、娘を添はして置くが気遣ひ。幸いさる歴々から貰ひかけられ、去り状(離縁状)取ると直ぐに嫁入りさする相談…」

要するに了竹は、義平が師直を仇と狙う塩冶浪士に加担しているのではと疑っていた。これでは園を呼び戻すことも出来ない。園がひそかに店の表に来て離縁状を持ってきたときも、義平は筋が通らぬといってそれを突き返したが、それだけではなく了竹本人のことが枷となっていたのである。しかし義平と園のあいだにはよし松という幼い子もあり、よし松のことを気遣い嘆く園を不憫であると義平も本心では思っていた。だがそうかといって今、中に入れるわけには…と、この女房とわが子をめぐる葛藤が、義平を演じる役者にとっては古くは見せ場のひとつになっていたということである。しかし初演からはるか後になるとこうした見どころも、人々の目から見れば飽き足らないものとなってしまったようである。なお「忠臣蔵」という言葉はこの段の最後に、「…末世に天(あま)を山といふ、由良助が孫呉の術、忠臣蔵ともいひはやす」と出ている。


  1. ^ 『近世邦楽年表 義太夫節之部』(六合館、1927年)106頁[1]など。
  2. ^ 松島(1964) p156
  3. ^ 赤間亮「最初の赤穂義士劇に関する憶説」。なおこれ以前に『東山栄華舞台』という赤穂事件を当て込んだ芝居が江戸で上演されたといわれているが、その真偽については確認されていない。また元禄16年10月に竹本座で上演されたという浄瑠璃『傾城八花形』も、その内容が赤穂事件に関わりがあるといわれるが、実際には赤穂城明け渡しなどをほのめかす記述がわずかにあるばかりで、赤穂事件を題材とした作とはいえない(『浄瑠璃集』(1985)『傾城八花形』解説)。
  4. ^ 師守記』暦応4年3月29日条ほか。『大日本史料』第六編之六参照[2]
  5. ^ 『国史大辞典』第五巻(吉川弘文館、1997年)486頁。
  6. ^ 内山美樹子「仮名手本忠臣蔵の作者」(『国文学 解釈と教材の研究』12月号第31巻15号所収、63-64頁)。
  7. ^ 『偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』(浜野保樹 角川書店、2008年)122頁。
  8. ^ 『昭和ニュース事典』第8巻(昭和17年/昭和20年 毎日コミュニケーションズ、1994年)本編15頁(「忠臣蔵」などノー、総司令部が指導 昭和20年12月12日朝日新聞)、『偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』(浜野保樹 角川書店、2008年)84頁。
  9. ^ 史実の吉良氏と高氏の関係に触れた論文としては、谷口雄太「中世における吉良氏と高氏」(初出:『新編西尾市史研究』2号(2016年)/所収:谷口『中世足利氏の血統と権威』 吉川弘文館、2019年)がある。
  10. ^ たとえば、松島(1964) p159






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